伯友会

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会長挨拶

会長

24期 石光 一郎

(2017年度伯友秋号掲載)

「新しい校旗の下で」

学校法人の変更を機に、広く在校生やOB から募集していました新しい六甲学院のマークが制定され、それに伴い六甲学院の校旗が新調されました。

2017 年度、4 月に神戸ポートピアホテルで開催された伯友会総会・懇親会は、幹事49 期生の頑張りで和気藹々、盛況のうちに終了しました。

総会においては、昨年度決算と今年度予算が承認されました。事業方針としては中学の定員削減に伴う卒業生の減少により、終身会費の収入減が予想されるので、それに対応するための「財政見直し」と、昨年度に形態を変更して発行した会員名簿に対するご意見に基づいて「会員名簿の再検討」を、進めていくことになりました。

<六甲の今>をテーマとした懇親会では、昨夏79期である中1 を最後に終了した「久美浜キャンプ」と、変わらず続けられている中3 の「立山キャンプ」の現地取材映像が用意され、母校教員として長年関わってきた私にとっては懐かしく、また両キャンプを経験されていない大先輩の皆様にも好評でした。

7 月に東京の日本工業倶楽部で開催された関東支部懇親会は、参加者200 名を超える大盛況で、来賓・高齢者席以外は立食しなければ会場に収まらない状況でした。準備にあたってくれた49 期生の地道な呼びかけと、故郷を離れた六甲生の母校に寄せる熱い思いを改めて感じました。また、栄光、広島、上智福岡3 校の姉妹校の同窓会からのご参加と、70~74 期の若い卒業生20 名以上の出席を得たことは、大きな喜びでした。

余談になりますが、私は古本市巡りが趣味で、7 月に恒例のサンチカ大古本市を訪れた際、「伯友」誌の〈支部だより〉にその活動が掲載されているロサンジェルス伯友会の懇親会にご出席の、10 期五明洋先輩の著書3 冊に偶然出合いました。「アメリカ研究」を専攻した私にとってどれも興味あるもので、三宮の雑踏の中でばったり知己に遭遇したような感慨を覚え、迷うことなく購入しました。しかも、出品していた「口笛文庫」は拙宅すぐ近くの六甲口にあって、主人とも懇意にしており、入手の経緯を尋ねたところ、ご本人が帰米前日に持参されたとのこと。何か不思議な巡り合わせを感じました。

さて、母校では昨年夏に終了した「久美浜キャンプ」に代わり、今年7 月、場所を岡山県牛窓に移して、80 期である中1 の「前島キャンプ」が初めて実施されました。『キャンプのしおり』にある古泉校長の〈巻頭言〉から、六甲学院の海のキャンプの歴史を拾うことができます。

1954 年8 月に中学生水練合宿が明石市林小学校を借りて実施され、その翌1955 年から淡路島の江井で中学1年生、2 年生の水泳キャンプが始まりました。江井のキャンプは10 年以上続きましたが、海の汚れがひどくなり中止。その後、日本海側の京都府久美浜町に1971 年7 月臨海学舎が完成し、2016 年まで45 年間にわたり久美浜の海のキャンプが実施されました。その臨海学舎も老朽化、終了となったわけです。

「前島キャンプ」の日程表によれば、従来のバーベキューやキャンプファイアーに加え、ウオークラリー、いかだ作りなどの、ものづくり体験、天体観測など多様なプログラムが用意されており、さらに充実したキャンプに生まれ変わったことがうかがい知れます。

私が特に注目したいのは、民間施設に委託実施するキャンプであるにもかかわらず、高校1、2年生の指導員が従来通り参加していることです。Man for others, with others に到る重要な教育手段として、様々な場面で六甲学院が大切にしてきた〈生徒による生徒指導〉が継承されていることは、非常に貴重なことだと思われます。

昨年度やむなく中止となった強歩会も、11 月に加古川河川敷のコースで再開されることになりました。長く六甲生の心身の鍛錬と思い出作りに寄与してきたこの伝統行事も、安全円滑な形で継続されることを切に願っています。

80 期生が入学した母校では、来る11 月17 日(金)にザビエル講堂において、久々に全校生対象の能楽鑑賞会が開催されます。24 期辰巳孝門君書き下ろしの創作能「連吟」、18 期下川宣長氏の「舞囃子」などが予定されています。また、伯友会では来年設立75 周年を迎えるに当たり、記念の式典および懇親会の準備に入っています。会誌「伯友」およびホームページ等で逐次ご案内致しますので、会員の皆様のご支援をよろしくお願いいたします。


(2017年度伯友春号掲載)

去る2月11日(土)、校名変更された母校「六甲学院高等学校」初の卒業生となる、74期生の卒業式に参列しました。式場のザビエル講堂では、卒業式に先立ち、赤松、李、増井神父の共同司式により、初めて卒業生全員参加の「感謝のミサ」が捧げられました。

この度の校名変更に伴い、正会員資格に「六甲学院高等学校卒業生」を追加して、74期生の入会を迎えましたが、このような節目の年、私は個人的にも特別の感慨を持って卒業式に参列致しました。 ちょうど50年前私は、建物こそ変われ、同じ季節、同じ場所で、同じ制服を着て卒業式に臨んでいたわけですが、「魂の故郷」伯母野山に立てば、半世紀という時の流れは、まさに一瞬です。

まだまだ日本が貧しかった1957年、創立20周年を記念して建てられた旧講堂は、町のどんな劇場にも見劣りしない素晴らしいものでした。完成から10年後の1967年2月16日、私たち24期146名は卒業式に臨みました。当時は全員丸刈りで、卒業証書は一人ひとり授与されたことなど、違いはいくつかありますが、感謝と祈りに満ちた厳粛な式であったことを記憶しています。

シュワイツェル第2代校長の訓辞に続き、武宮初代校長が名誉校長として、いつもの朝礼・終礼と同じように壇上から語り掛けられました。「お前たち卒業してもね、その制服を心にまとって行くんだよ」という言葉が胸に残っています。その日80歳になる私の祖父が参列しており、「六甲の教育は本物だ」と後日述懐しておりました。

半世紀前、記憶に残る出来事と言えば、武宮校長勇退の前年、1964年10月に、アジア初のオリンピックが東京で開催されたことでしょう。娯楽と言えばせいぜい映画くらいの時代、私たちは夢中になりましたが、その時東京で、今で言う「パラリンピック」が開催されていたことは、まったく知りませんでした。

今回74期卒業生への餞として、そのパラリンピック提唱者の言葉を送りました。現在のパラリンピックは、ナチス政権下のドイツからイギリスに亡命し、ロンドン郊外のストーク・マンデビル病院脊髄損傷センター長に就任した、グッドマンというユダヤ人医師によって、第二次大戦で障害を負った入院患者のため催されたスポーツ大会が発展したものです。この競技会はその後国際大会となり、1960年のローマでオリンピックと同時開催された国際ストーク・ マンデビル競技大会が、「パラリンピック」の第1回大会とされ、その第2回大会が1964年に東京で行われたわけです。

グッドマンが患者を激励した「失ったものを数えるな。残されたものを最大限に生かせ」という言葉は、六甲を巣立つ生徒の理想像『六甲生のプロファイル』の第1項<ありのままの自己を受け入れ、その自己を向上させることができる>と合致するものであり、私たちが共有する「すべてのものは過ぎ去りそして消えて行く。そのすぎ去り消えさって行くものの奥に在る永遠なるもののことを静かに考えよう」という、武宮初代校長の言葉にも通じると私は考えています。

2016年度のご報告ですが、昨年7月3日に上智福岡同窓会60周年記念式典が福岡で、11月19日に4校同窓会連絡協議会が、ペドロ・アルペ記念講堂新築披露を兼ねて、広島学院で開催されました。 また、今年3月19日には、栄光学園新校舎落成祝賀会が催されました。学校法人上智学院の下、4校が同窓会も含めてさらに連携を深め、共にイエズス会教育の発展を目指せればと願っています。

母校では、中1の久美浜キャンプが昨夏79期で最後となり、強歩会も中止と様々な変化が見られます。古泉校長の卒業式式辞によれば、強歩会は一時中断とのこと、新たなコースでの再開を期待したいと思います。今年49期生が準備してくれた懇親会のテーマは、「六甲のいまを見てみよう」です。最後の久美浜キャンプのほか、立山キャンプの映像など頑張って用意してくれましたので、ぜひご参加の上ご覧ください。

最後になりましたが、昨年開設致しました「伯友奨学基金」には、すでに350万円を越える寛大なご寄付をいただき、母校生徒への支給を始めることができました。心から御礼申し上げます。併せて、六甲学院新校章の選定にご協力いただいた方々にも、紙面をお借りして御礼申し上げます。


(2016年度伯友春号掲載)

去る2月6日、73期生の卒業式に参列しました。今年も凛々しく感謝と祈りに満ちた、素晴らしい卒業式でした。

73期生は、入学後の僅か1学期間ではありますが、私たちの思い出の詰まった旧校舎で過ごした最後の期で、「六甲」高等学校を卒業する最後の期ともなりました。4月には校名を「六甲学院」中学校・高等学校に改め、新しい歩みを始める母校に、さらなるご支援をお願いいたします。

さて、2012年厚労省の発表では、日本の子供(17歳以下)の貧困率は、16.3%(約6人に1人)という驚くべき数字となっています。母校の奨学金を受給する生徒も、2008年度までは毎年数名で推移していましたが、その後漸増、2010年度には15名(支給総額270万円)に達しました。六甲学院奨学金は、創立50周年を機に設けられた「六甲学院奨学基金」の果実(約30万円)と保護者の会「六甲会」の寄付金100万円、そして<イエズス会の寄付>と篤志家の寄付によって、毎年支給されています。

<イエズス会の寄付>とは、厳密に言えばイエズス会『会員』からの寄付であり、神戸修道院のイエズス会員全員の収入から、修道院の必要経費・生活費を支出した残額の一部を、六甲学院に寄付されてきたものです。私たち在学中は、ヒルケルさん、メルシュさんや神学生も含めて、「別館」と呼ばれるレジデンスの会員は十数名を数え、私が教員として着任した1970年代でも、常に各学年1名の神父がおられました。しかし、近年その数は減少の一途を辿り、ご存知の通り、母校には赤松理事長(27期)ただ1人となりました。

昨年、この<イエズス会の寄付>が今後なくなる可能性もあり、伯友会奨学金の設立をとの要請を受け、経済的事情で母校を去る後輩は出したくないとの思いから、特別委員会を立ち上げて検討を始めました。母校職員の林豊(34期)、植松浩一(39期)両君が、委員会メンバーとして奨学金支給の実情をまとめ、50期幹事で弁護士の藤原唯人君、同じく弁護士の藤本久俊副会長(31期)の協力も得て規約案も完成し、「伯友会奨学基金」(仮称)設立に向け努めて参りました。

新約聖書に「友のために命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネによる福音書15章13節)というキリストの言葉がありますが、美学・哲学研究者で東大名誉教授の今道友信氏の「他者の幸せを願って、自身の大切なものを差し出すのが善である」という表現に置き換えてみれば、より自然に受け取れるのではないでしょうか。

この言葉はまさに、1970年代粟本校長によって提唱され、後を受けて外川校長が推進された「社会奉仕活動」、中でもインドの「ダミアン社会福祉センター」の恵まれない子供を、各クラスで1人支える<インド募金>の心に通じるものです。生徒たちは、痛みを感じて募金に応じることこそが真の奉仕であることを学び、慎ましい小遣いの中から月100円、200円と、今も頑張り続けています。

2年後には創立75周年を迎える私たち「伯友会」も、世の恵まれない人々への献身奉仕はもちろん、足元の母校への奉仕も視野に入れて歩んでいきたいと思います。ぜひとも「伯友会奨学基金」設立をご承認いただき、ひとりでも多くの会員のご協力をいただけることを願っています。


石光会長

24期 石光 一郎

(2015年度伯友秋号掲載)

47期生のお世話と多くの皆様のご協力により、今年も5月の総会・懇親会、7月の関東支部懇親会共に、楽しく盛況のうちに終えることができました。

総会では、会員名簿の仕様変更が承認され、その後、母校の 要請を受け、学費納入が困難な生徒のための「伯友会奨学金」 設立と、姉妹校訪問を中心に毎年行われる「ニューヨーク研修」 支援などを検討中です。

在校生に関しては、高3佐伯、東、両君の模擬国連国際大会での受賞、野球部の近畿大会ベスト4進出、5年連続神戸市最優秀賞などで活躍中の演劇部活動のテレビ放映、囲碁部の全国大会出場など、嬉しいニュースが続いています。

会長として強歩会表彰式や高校卒業式に参列し、母の会バザーにも足を運ばせていただくなど、母校訪問の機会も増しま したが、個人的にも、懐かしい便りに接しました。

陸上競技部で共に1600mリレーのメンバーとして頑張っ ていた25期福田君から、伯友会事務局を通して半世紀ぶりの 便りが届き感激していたところ、偶然にも、関東支部懇親会幹 事の47期五百旗頭君から、私の陸上競技部時代の記録を知ら せよとの依頼あり。個人記録と共に、リレーチームの成績をお 知らせしたところ、懇親会クイズ大会で、この1600mリレー に関する問題が出題された次第です。

賞状

私たちのリレーチームは、1965年度神戸市高校選手権で準優勝、1966年度神戸市民体育大会で3位、県私学大会で優勝、県高校総体では決勝進出。部活(当時は「部練」と言っていましたね)は週3日以内という、六甲独特の厳しい制限の中でも、強豪校に伍して戦えることを身を持って体験し、4年間陸上競技部顧問として、そして後日ラグビー部を設立して顧問となるにあたり、その規定の範囲内で信念をもって迷わず指導することができました。

関東支部懇親会の直前、伯友会事務局を通して、今年の文化祭を担当する74期生から、文化祭の始まりと各期のテーマを調べてほしいとの依頼がありました。ちょうど陸上競技の大会プログラム、記録集、表彰状など、昔の資料を引っ張り出していたところ、その中に、24期担当の1966年度「第7回文化祭」のプログラムが出てきました。

『六甲学院 50年のあゆみ』によりますと、文化祭は 1958年度18期生に始まり今に至っていますが、私たち在 校中の1960年代の文化祭は、弁論大会、音楽、演劇などの 講堂行事とクラブ展示のみで、特にテーマは設定されていませ んでした。私たちの代のプログラムに「昨年から参加しました 運動部も・・・」とあることから、1964年度までの発表参 加は、文化部のみだったことが分かります。

私の記憶では、1964年の東京オリンピック開催をきっか けに、翌年から運動部も文化祭に参加し、私たち陸上競技部は、 掲示発表とともに砲丸やハードルなどの競技用具を展示したよ うに覚えています。プログラムの校内案内図には、山岳部、出 版部、園芸部、放送部など、今では姿を消した懐かしいクラブ の展示室が見られ、役員欄には、総務:シュバイツァー校長、 顧問:ドレーガ(後の武庫)先生、吉川(洸)先生、鈴田先生 と、思い出深い恩師のお名前があります。

さて、今年度母校では、30期の古泉新校長が就任され、新たな日々がスタートしました。26期松浦前校長は、就任直後に新型インフルエンザによる1か月休校で体育祭中止、仮設校舎生活2年などの苦労をされましたが、古泉校長時代の幕開けは順調な滑り出しのようです。

2016年4月、法人合併により経営母体は「学校法人上智学院」に一本化されるわけですが、兄弟校がそれぞれイエズス会教育を堅持し、社会に奉仕する人間の育成という使命を追求していくため、イエズス会4校同窓会の連携が、ますます重要になると思われます。

昨年初めて出席した4校同窓会連絡協議会の席では、地域や年代の違いを越えて、イエズス会教育の理念を共有する仲間としての絆を強く感じました。そのような折、今年の伯友会関東支部懇親会には、11月の同窓会会場の下見を兼ねて、栄光学園同窓会の菱沼会長が特別参加されたことは、大きな喜びでした。

また、神戸、東京共に、今年の懇親会には新会員72期生が多数出席してくれて、伯友会の明るい未来を感じることができました。このように、新たな時代を語る人は新たに生まれるわ
けですが、六甲の今を支える「礎」について語り継ぐことの意義を改めて思い起こし、その責務を果たしたいと考えます。


新たなる出発(2015年度伯友春号掲載)

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昨年5月の総会において、会長にご指名を受けてから、早くも1年。その間、定例幹事会、関東支部懇親会、姉妹校同窓会連絡協議会など、ほとんどの会合に出席させていただき、示唆に富んだ意見交換や諸先輩からのアドバイス、幹事の皆さんの母校と全卒業生に対する奉仕の姿勢に、改めて感謝の念を強くしております。

さて、今年は阪神淡路大震災から20年、1月17日を中心に各種追悼行事が執り行われ、さまざまな震災特集が組まれた年明けとなりました。また、東日本大震災から4年、3月10日付『読売新聞』の特集記事に、五百旗頭前会長が「ひょうご震災記念21世紀研究機構」理事長として、震災の遺構保存についての提案を寄せておられ、翌11日の同紙<編集手帳>には「われわれは後ろ向きに未来へ入ってゆく」というポール・バレリーの言葉が引用されていました。まさに20年という時を経ても、1995年1月17日早朝の空気を、私は今でも忘れることはできません。

当時は「成人の日」の祝日であった1月15日には、ラグビー仲間と日本選手権決勝をテレビ観戦するのが恒例で、観戦後は新年会を兼ねて、愉快に酒を酌み交わしておりました。その<至福の余韻>と<震災の恐怖>とのギャップのあまりの大きさに、夢の中にいるような現実喪失感を覚えました。

17日当日は、連休明けの授業日。床の中でラジオを聞きながら新聞を読むという、いつも通りの起床前の時を過ごしておりました。私の自宅は、石屋川扇状地からわずか道路1、2本の違いで倒壊を逃れた地区にありましたが、薄暗がりの中、突然の大音響と激しい揺れに、何が起こったか判然とせず、ただ茫然自失。実際は数十秒と言われる横揺れは永遠に続くかと思われ、2階窓際のベッドの上で、空中に放り出されるような恐怖感と、食器やガラスの割れるすさまじい音に耐えました。

やがて激しい揺れが収まり、粉々になって寝室の入り口をふさいでいる鏡台を踏み越え、子供たちの無事を確認して表に出ました。すでに近所の人たちが毛布をまとい、不安げな表情で街角にたたずんでいました。

急いで出勤すると、水道管破裂のため水浸しとなった東広場の水を、曽根校長が一人黙々と掻き出しておられる姿が印象的でした。東広場から見下ろす市内あちこちには、すでに黒煙が上がっておりました。

信号機の消えた六甲登山口の、色も音も無く広がる風景が、今でも脳裏によみがえります。木造の民家はもちろん、JR六甲道の駅舎、コープ六甲店など大型建造物が倒壊し、無残な姿で横たわっていました。自宅の玄関口には黒い灰が降って、六甲本通りや宮前の商店街が全焼していました。

当時の日記から学校再開までの日々を追ってみます。

「1月20日 毎日出勤、電話番と作業。夜、3日ぶりに電気通じる。灘区南部、東灘区、長田は壊滅、死者5000名という」

「1月26日 震災後初の生徒登校日。各クラス約3分の2が登校。片道4時間の者あり。中3は1名を除き無事を確認。2月6日より授業再開予定」

「2月4日 学年末考査は中止。全員進級の決定あり」

「2月6日 10時始業、短縮4時間で授業再開。遅刻者多数ではあるが、8割以上出席。帰りのバスは4時間待ち。阪急の復旧は、御影~岡本間が7月、夙川~北口間が8月末とのこと。半年以上この窮状かと気も遠くなる」

この間、第3グランドを仮設住宅用地に提供する申し出を行政に行いましたが、坂道あまりに急峻との理由で却下。一方、生徒研修所は避難所、カトリック医師団の本部となり、講堂棟トレーニングルームはボランティアグループの基地として使われました。姉妹校をはじめ各方面から送られた日用品や衣類、文房具などの支援物資には、いくら感謝しても感謝しつくせないものがありました。

地震発生から間もなく、六甲関係者の安否確認のため、当時の教頭、佃先生と一緒に避難所周りをして歩いた、がれきとブルーシートが果てしなく続く街並みや、何人もの六甲生、ご家族に再会できた感激も忘れることができません。最初に入った東灘区の小学校で、放送設備を借りて呼びかけ、ひとりの六甲生を見つけた時の喜びについては、本年2月7日の72期卒業式での祝辞で触れました。

卒業式と言えば、我々の継承する「六甲精神」を大切にという趣旨で用意した祝辞が、まったくの蛇足と感じるほど、卒業生代表の道場君の答辞は素晴らしく、「六甲独特の問いかけは成長への誘いであり、個人が成長することで学校全体が成長し、成長が自信を生む。その自信が成長を生み、大きな循環は途絶えることがない」との趣旨、「武宮校長の石碑の言葉には探すということにとどまらず、創造することを通し成長せよという含みがある」と看破するに至り、伯母野山の教育は未だ揺がずと確信いたしました。

母校の近況としましては、創立75周年を挟む6年間を、仮設校舎での運営を含めて支え続け、この卒業式で最後の式辞を述べられた26期、松浦明生校長が勇退され、新たに30期、古泉(旧姓・佐久間)肇校長が就任されました。また、現在行われている法人合併協議を経て、『学校法人六甲学院』の名称が消えることに伴い、2016年度より母校の正式校名は「六甲学院中学校・高等学校」となる予定です。我々卒業生に関わる大きな変化は特にないと思われますが、新たな出発に際して、母校と伯友会に対する皆様の変わらぬご支援・ご協力を、改めてお願いいたします。

 


 

「黙ってやれ、後でわかる」(2014年度伯友秋号掲載)

私は、1961(昭和36)年、24期生として伯母野山の坂道を登り始め、以来すでに53年という年月が過ぎ去りました。その間、上智大学時代も含めて、半世紀以上に渡り、六甲学院とイエズス会に直接お世話になる生活を送らせていただきました。

大学時代にはラグビーに転向しておりましたが、夏休みごとに母校の陸上競技部の練習や合宿に馳せ参じ、4年生の時には教育実習でもお世話になりました。大学卒業後、しばらく東京の出版社で編集者をしておりました間も、上智大学や母校で恩師のご指導を仰ぎました。

英語教育専門誌の編集部に配属され、学校訪問や取材に携わるうちに、心の片隅に抱いていた教員への夢膨らみ、退社してアメリカ留学。縁あって1977年、第3代粟本校長に英語科教員として採用していただき、以来31年間母校のお世話になりました。幼いころからひたすら「六中」に憧れた私にとって、中1入学時の高3、19期生から、退職時の中1、70期生まで、50以上の期の同窓生と伯母野山で共に過ごすことができたのは、実に幸せな境遇でありました。
教員時代は教科指導以外に、課外活動、校外学習、海山のキャンプ、修学旅行など、日曜、祝日もなく生徒と共に過ごし、充実した生活を送らせていただきました。一方で、個人的にやりたくても手をつけられなかった、さまざまなことが山積しており、退職後は、残された時間をひとり静かな生活に、と考えていました。もちろん、お世話になり続けた母校には、何らかの形で恩返しと協力はしたいとの思いも強く持ち続けておりました。

会長就任のお話に逡巡しているうちに、ひとつ思い浮かんだ在校中の出来事があります。同期でもあまり記憶にないかと思われますが、中3に進級して間もなく、フリン先生より『アサヒイブニングニュース』主催の英語弁論大会に出るよう言われ、尻込みしてひたすら断り続けておりました。あろうことか、ある日の授業中、校長室に出頭するよう呼び出され、武宮校長より直々に、「男の子は、やってみろと言われたら、悪いことでない限り、やるものだよ」と説諭されました。さすがに武宮校長に向かって「いやだ」とは言えず、教室へと戻る足がひどく重かったことを、今でも思い出します。

夏休み中になんとか原稿を書き上げ、2学期になると、登校前には六甲教会の一室で、放課後には、別館や旧講堂舞台上での特訓が続き、当日を迎えました。内容は、陸上競技の練習の苦しさやスタート前の緊張感、ゴール後の充実感等、だったと思います。自分では壇上での極度の緊張に、なんとか耐えたという思いだけが残りましたが、結果は思いもかけぬ中学の部での優勝。1963年11月23日、ケネディー大統領暗殺のニュースで、日本中が大騒ぎになった日のことでした。

それまで引っ込み思案であった私も、これをきっかけに、少しずつ物事に積極的に取り組めるようになった気がします。尻込みしながら、なんとか意を決してやってみて、貴重な体験ができたことで、まさに「黙ってやれ、後でわかる」という六甲精神が、この時私の中に刻み付けられたようです。

この度のお話をいただいたころ、ちょうど読んでいた『漢語四方山話』(岩波書店)の中で、たまたま<余熱>という言葉に出合いました。中国語の<余熱>はもともと残暑を意味し、7世紀ごろから使われているそうです。その第二義に、1980年代後半からの用法で「最盛期を過ぎ、現役を退き退職した老人の、まだ尽きずに残っている熱気」とあります。私が最終的に会長をお引き受けしたのは、そんな心の中の<余熱>のなせるわざかもしれません。「熱」といえば、2014年度の総会・懇親会、関東支部懇親会に出席させていただき、六甲生の熱い絆と団結力を改めて強く感じ、感動しました。

母校の近況では、70期、71期と大学進学実績も上向いている模様で、2014年度中学入試では志願者増、県内では灘中に次ぐ高倍率となりました。また、在校生保護者へのアンケートに見られる志願理由では、「中高一貫」に次いで挙げられているのが「教育理念」です。「偏差値・学校レベル」よりも「教育理念」が上にくるのは、我が母校が健全な教育理念を地道に訴え、世俗の価値観に惑うことなく追求し、卒業生の一人ひとりがその体現に努めてきた証ではないでしょうか。

創立75周年を過ぎて、近代的な新校舎が完成し、六甲草創期の建物は全てその姿を消し、赤松理事長・松浦校長以外の現役教職員の中には、武宮校長時代の六甲生活を直接知る人はいなくなりました。一抹の寂しさは禁じえませんが、ハード・ソフト両面が更新され、母校が新たな時代に向けて歩み始めた今、六甲教育の礎が築かれた「武宮時代」をはじめとし、「魂の故郷」の数々を語り継いでゆくのも、私たち伯友会員の勤めではないかと思っています。

私は一介の教員としての生活を送ってまいりましたので、学校外の実業界にはまったく疎く、今や会員1万1千名を越える伯友会において、どのようなお役に立てるのか、はなはだ心もとない思いでおります。しかしながら、幸い65歳をすぎても、月に2,3回はラグビーを楽しめるほどの健康と体力には恵まれ、また、母校愛では人後に落ちないつもりでおりますので、皆様のご協力を得ながら、私なりにがんばりたいと思います。