12期同期会

開催日
平成28年11月9日
場所
ポートピアホテル 30階 プレンデトワール
出席者
池長、内本、小野、北、小島、小林(宣浩)、渋川、島津、種子田、田淵、堤、戸上、中村、藤原(泰)、鷲尾、那谷、久山、中森、中西

関西在住者 64名中 出席者 19名

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18歳vs81歳。

「人生につまずくのが18歳、小石につまずくのが81歳」12期は丁度この年齢になります。「乾杯で会を始めるのが18歳、黙祷で会をはじめるのが81歳」ということで、名誉大司教の池長君に、お願いして48名の鬼籍者に、追悼の黙祷、引き続き乾杯の音頭をお願いし、互いの健康とこれからも、多くの会員が顔合わせできるように頑張りましょうの言葉で、会が始まった。欠席の理由は、本人の高齢からくる身体的不調と家族の健康問題等である。次回は、少しでも回復されることを祈る。会場での着席は、向かい合わせで、細長く伸び、その上、隣接して一般席もあり、全員に、伝達することが難しく、隣どうし、向かい同志と話しが弾みだし、最後まで周知徹底できず、改めて紙面をかりて、不手際を、お詫びします。良かったことは、久しぶりに、戸上君が、何年振りかで元気に参加してくれました。本人は、自分の顔を皆さん覚えてくれているか心配していましたが、直ぐにわかりました。次回、より多くの方々の参加を期待致しております。

2時間の予定が、あっというまに過ぎました。久山君の。来年も元気に逢いましょうの閉会の挨拶で終了後、全員で写真撮影しました。

会合に於ける最も重要なお知らせ;

それは、六甲きっての、超真面目を絵に描いた 五十嵐 温彦君の、「日経新聞」の記事であります。昨年10月21日朝刊の文化欄に「戦没7200隻の航跡たどる」です。この誌上で、12期以外の方々も関心をもってください。彼は、現在に至るまで、家族、兄弟、親戚等、遺族の方々が、まだ健在の内に、沈没で、亡くなられた身内の状況が、何の資料もないまま、船名も、誰が乗船いたのか、何処に向かっていたのか、何もわからないままでは、あまりにも気の毒ではないかという強い思いで、調査はじめた。判明したのが、殉職船跡資料として現時点で、33冊が、完成した記事です。これはまだ、全体の3割強にとどまり、本人は、命の続く限り、調査を続けていく決意だそうです。私は読みまして、さすが五十嵐君らしいと、国家がやるべき事を、一個人が、それも自費出版で、神戸の資料館、海事図書館、日本殉職船員顕彰会に届けていることに、拍手を送るとともに、非常に感銘を受けました。

私事になりますが、太平洋戦争で、3人の叔父を亡くしましたが、その一人は、南方の太平洋上で、死亡広報の知らせのみでした。私の父親から、生前、若くして死んだ弟が可哀そうと、何度も聞かされていました。私に出来ることがあれば協力させていただきます。終わりに、本年は、戦後72年になります。戦争体験者が、徐々に少なくなってきたこの時期、もし時間があれば、是非読んでいただきたい書籍を、推薦いたします。永井 隆 博士の、広島原爆で、亡くなるまでの状況を、克明につづられた、二人のご子息を、心配しての「この子を残して」と、大岡 昇平の「野火」です。12期は、国民学校に入学、突然の空襲警報や警戒警報のサイレンで、家の地下壕や、外の地下壕に隠れ、そのうち戦況悪化で、縁故疎開と集団疎開二組に分かれて、遠くに疎開し戦後は、自宅が、残っていれば、もとの学校に、なければ家探しからスタートしたのです。私も3回転向をしました。「戦争を知らない人間は、半分は子供である」と大岡昇平は、作中独白させています。世界が不安定なこの時期、昭和24年卒業後の、過ぎ越し方を、互いに顔合わせして、はなしあえる同期の良さを、再認識する良い機会であり、明日への力にしたいものです。

以上。

(那谷 昌弘 記)