伯友会

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「作曲家 本田周司プロジェクト(仮)」について

(2011年伯友会懇親会にて。本田先生(左から二人目)と50期生メンバー。筆者は左端)

 

1 はじめに

作曲家 本田周司先生(以下「本田先生」という。)の作品を蒐集・整理し、後世に向けて保存する「作曲家 本田周司プロジェクト(仮)」の立ち上げをお知らせします。

本田先生は、1955年(昭和30年)から1989年(平成元年)までの間、六甲学院中学・高等学校において音楽教諭として教鞭をとられました。この30数年間、六甲学院において唯一の音楽教諭であり、全学年の音楽の授業を担当されました[1]

本田先生は音楽教諭であったのと同時に、作曲家でもありました。その作品は、生徒向けの唱歌、管弦楽、吹奏楽、ピアノ曲、合唱曲など多岐にわたっています。我々伯友会会員になじみが深いのは、「六甲学院讃歌」でしょう。現在においても在校生に歌い継がれています。

この「六甲学院讃歌」をはじめとして、「六甲歌集」に収録された歌の数々を作曲されたり[2]、音楽部のために吹奏楽作品を書かれたりするなど、自ら「教材」を提供されたほか、楽壇最高の登竜門として知られている「日本音楽コンクール」の作曲部門においても複数回受賞されています[3]。また、交響曲「三つの像」は、総理府(現在の内閣府)主催の「21世紀の日本」において管弦楽部門総理府長官賞を受賞し、この曲は六甲学院創立30周年の記念演奏会において京都市交響楽団によって披露されました[4]

また、本田先生は京都府福知山市の福知山成美高校(私立)の校歌の作曲者でもあり、同校が甲子園に出場し校歌が斉唱された際、作曲者として本田周司の名が映し出され、伯友会会員の間で話題になったことがありました。この校歌は六甲学院に勤務するよりも前に作曲されたということです[5]

これらの作品の中で圧巻とされるのは、日本二十六聖人殉教をモチーフにした「長崎への道」シリーズでしょう。中でも「交響的序曲 長崎への道」は第一番から第三番を擁し、それぞれ演奏時間が30~45分にわたる大曲になります。同第一番及び第二番はそれぞれ1983年(昭和58年)と1984年(昭和59年)の夏に当時の音楽部によって初演されました。特に同第二番は本田先生ご自身が「私の作品中白眉とも言うべき力作であり、後世に残る傑作であるという自信があった」と述懐されており[6]、初演の年の12月に当時の六甲学院講堂において再演されました。また、後述の通り1987年(昭和62年)の夏にも音楽部によって演奏されました。

同第三番は1987年(昭和62年)11月14日に六甲学院創立50周年記念式典において京都市交響楽団により初演演奏されました[7]。現在の講堂の杮落としとなったものです。

また、本田先生ご退職後の1997年(平成9年)3月19日には京都コンサートホールにおいて日本二十六聖人殉教四百年記念演奏会[8]が開催され、交響的序曲長崎への道第三番が再演されました。

しかし、筆者が調査した限り、この演奏会を最後に本田作品が公の場で演奏された記録がありません。

後述するように、本田作品は楽曲としての壮大さ、美しさ、そこに込められた思想性の深さもさることながら、中高生にも親しめる間口の広さを兼ね備えており、芸術としての価値が余すところなく詰め込まれています。

とはいえ、造形芸術と異なり、音楽は演奏されてこそその魅力に触れることができ、また後世に伝えられるという宿命を帯びています。最後の演奏から30年近くがたつ今、このままでは素晴らしい作品群が埋もれてしまうという危機感を抱かざるを得ません。

そこで、本田作品の収集・整理し、後世に記録として伝えるべくプロジェクトを立ち上げようという思いに至ったものです。

 

2 本田周司先生ご経歴

(1)本田周司先生は1927年(昭和3年)2月[9]、三重県天白村(現在の松阪市)において代々神主であった家の三男として生まれました。長兄がヴァイオリンを弾くなど、家庭内に音楽環境はあり、幼少期より音感のよさを家族から見出されていたものの、習いごとなどを含め特段の音楽教育を受けることはなく、子ども時代を過ごしました。楽譜も読めなかったということです[10]

その後、海軍に入隊するものの、18歳のときに終戦により復員しました。出撃しようにももはや日本軍には乗る船が無かったということです。戦中までは国家により目標がはっきりと定められていたものの、これが無くなり空虚な日々を送っていたところ、芸術ならば裏切られることがないと考えたのが音楽の道に進もうと思ったきっかけになったというのが本田先生の言です[11]

とはいえ、楽譜すら読めなかった青年が作曲の道を志すというのは、いくら戦後の混乱期であったとはいえ飛躍を感じるというのが率直なところです。いかにして自己の才能に気付き、勉強し、これを職業にしようと思うに至ったのかは杳として知れません。1991年(平成3年)に当時の在校生によって実施されたインタビュー[12]でもこの点は曖昧なままです。なお、本田先生自身は自己の学歴を「独学」とされ[13]、経歴等において師事者として野口源次郎や外山道子[14]といった作曲家の名が挙げられています。

(2)本田先生が、音楽の勉強を続ける中で出会ったのが、フランスの作曲家アルチュール・オネゲルであり、オネゲルとの出会いが六甲学院につながります。

オネゲルの作品、中でも交響曲第3番「典礼風」に大きく感銘を受け、オネゲルの精神性を理解するためにカトリックの世界に関心を持つようになりました。本田先生ご自身は、動機としては不純と述べています[15]

当時の本田先生は宝塚歌劇団で音楽の仕事を得ていたところ、ある休日に六甲山にハイキングに行った際、帰りのバスの車窓からたまたま六甲教会を見つけました。こんなところに教会があると思い後日改めて六甲教会を訪ね、当時在籍していたブラウン神父に出会いました。最初はスコアに記されたラテン語の言葉の意味を尋ねること程度の関心しかありませんでしたが、同神父にさらに勉強することを勧められ、教会に通うようになったということです。進駐軍が六甲教会に来ていた時期ということなので、1952年(昭和27年)以前のことになります。そうするうち、六甲教会で六甲学院の武宮隼人初代校長に出会い、音楽教諭としての就職の話が持ちかけられたものです[16]

(3)ここから30数年にわたる六甲での教員生活が始まります。

その間、上記の通り多数の作品を生み出されました。大きなモチーフになったのは、日本二十六聖人です。豊臣秀吉の治世であった1597年(慶長2年)に起こった、日本で最初のキリスト教弾圧の殉教者で、京都で捕らえられたキリシタン24名と途中で加わった2名が山陽道を長崎まで連行され、長崎の西坂の丘にて磔刑に処せられ殉教した事件として広く知られています[17]

新聞の連載小説がきっかけで二十六聖人に関心を持った本田先生は[18]、同じ道を歩いてみようと思い立ち巡礼を始めました。まずは巡礼というものを知るために「四国八十八箇所巡り」を体験し、この結果を踏まえて1977年(昭和52年)に自ら京都から長崎まで踏破されました[19]

この巡礼の旅が創作活動の原点になり、上記の「交響的序曲 長崎への道」シリーズ、これに先立つ「パッサカリア」「巡礼の為の狂詩曲」など、多数の作品が生み出されました。ピアノ曲も存在します。

六甲学院をご退職後は「長崎への道事務局」を主催し、巡礼者の世話をされていました。上記の通り1997年(平成9年)3月19日に日本二十六聖人殉教四百年記念演奏会が開催されました。

現在、御年98歳、ご存命ということです。

 

3 作品の魅力

(1)私事で恐縮ですが、筆者は1987年(昭和62年)つまり六甲学院50周年の年に中学1年生として入学しました。音楽教諭は本田先生でありその独得の授業を楽しみました。のみならず同年夏に行われた音楽部のサマーコンサートにおいて演奏された「交響的序曲 長崎への道第二番」に深く感動し、本田先生の音楽世界に惹きこまれました。

同年11月の五十周年記念式典において、京都市交響楽団によって同第三番が初演され、好評を博しました。続いて、生徒向けに翌1988年(昭和63年)4月にやはり京都市交響楽団による演奏会が開かれました。上記の通り筆者は第二番にうちのめされ、さらにこの第三番でも大きく心を揺さぶられました。筆者の人生において「この人は天才だ」と思った最初の人物であったことに間違いありません。筆者は小学生のころからピアノを習い、実は50歳になった今でもピアノ演奏者として音楽活動を続けています。中学生男子というとそれまでの習い事としての音楽を止めがちなタイミングですが、本田作品との出会いがあったことで、ピアノを継続することになりました。本田作品が、今に至る音楽活動の「延命」に寄与したことは疑いがありません。

50周年当時の校誌をみるに、46期の鎌谷朝之氏が解説文を記しているように[20]、この楽曲に感銘を受けた六甲生は多数いたものと思われます。

(2)では、本田作品の魅力は何なのでしょう。その魅力の考察の仕方は多岐にわたりますが、なぜ中高生にも感銘を与えることができたのかという視点から、「交響的序曲 長崎への道」シリーズを題材に検討したいと考えます。

まずもって作品そのものの、いい意味での「わかりやすさ」が挙げられます。

モチーフが日本二十六聖人殉教という、教科書にも写真付きで出てくる日本史上の事件になります。誰もが知る事件をモチーフにすることで、必ずしも音楽的素養がない人や宗教的な関心のない人であっても、間口のハードルを下げることができます。

この間口をくぐれば、楽曲におけるわかりやすさがあります。「交響的序曲 長崎への道」シリーズは、いずれも主題のメロディラインがはっきりしているのが特徴です。容易に口ずさむことができるし、歌詞をつければ歌にもなるでしょう。また、そのメロディラインがきわめて日本的な短調のメロディであり、より親しみやすくなっています。誤解を恐れずいえば、時代劇主題歌や演歌のようなノスタルジックな入ってきやすさがあります。

そしてこの主題が繰り返される(それゆえ演奏時間が長くなる)という点が最大の特徴です。よって、嫌が応でも主題が耳に残ります。この主題の形式も、基本的な型(A)、その発展型(A’)、展開型(B サビと呼んでもよかろう)の3種類の任意の組み合わせになっている点でも共通しています。よって、聴いていて次の展開が読みやすく、意表を突かれることなく音楽にひたれることができます。

併せて、特異な和音を使わず、基本に忠実な和音進行を用いていることからも、とっつきやすさがもたらされています。さらに変拍子も使われていません。長い楽曲であるが、ずっと4分の4拍子が継続しています。これは徒歩による旅の単調さを表現するものとも思われますが、聴く側に安心感をもたらすことになります。現代音楽においては、不協和音や変拍子で奇をてらうことが一種の現代性とされる場合もありますが、それとは一線を画する態度がみえます。

次に表現が非常に写実的であるという点も挙げられるでしょう。この点も「わかりやすさ」に寄与していると言えます。

「長崎への道」は、二十六聖人が長崎に連行された道を徒歩で歩く巡礼行為がテーマになった楽曲です。

歩くという行為自体は実に単調です。ただ、単調な歩みであっても、目的地を目指す歩みというのは、疲れはもたらすものの、決して退屈をもたらしません(どこか目的に向かって歩いているときに退屈という感情はあまり浮かばないだろう)。むしろ単調であればこそ、街道の様子、空や木々が示す季節感のほか、道端でふと目にとめた何気ない地元の人たちの生活のひとこまが、却ってインパクトをもたらしてくれます。観光名所などを訪れる旅にはアクセントがありますが、アクセントがない旅は、ない故のディテールへの気づきが期待できます。

また、単調な行為のなかで、様々な思いが去来するでしょう。それは400年前に同じ道を歩いた二十六聖人の姿や、その心持ちへの想像かもしれないし、同時に今自分が歩いている行為そのものが果たして意義あるものなのかという疑問かもしれません。

こうした、旅の情景や去来する思いが、「わかりやすく」楽曲として表現されているのが「交響的序曲 長崎への道」シリーズです。

上記の通り主題は3通り(A、A’、B)を組み合わせて繰り返し、徒歩による旅の単調さを表現します。しかし、同じ主題の繰り返しであるからといって、決して退屈をさせません。たとえば、バッキングを多彩に変えたり、リードをとる楽器を変えて新たな表情を出したりと、巧みなアレンジにより、同じ主題の繰り返しであっても決して飽きさせません。むしろ、繰り返される主題を聴きつつも、その先に明確な目的地があり、音楽をもってそこに誘導されているという気分になってきます。単調であっても退屈するわけではない、徒歩による旅が巧みに表現されているわけです。

そして、こうした主題とあわせて、街道の様子が写実的に描かれます。たとえば、空の様子であり、祭りの様子であり、夜明けや夕暮れの様子です。

また、殉教者のモチーフが楽曲の冒頭と末尾に描かれます。殉教者らは耳を削がれ裸足のまま京都から長崎まで連行されたわけですから、筆者のような信仰がない者の視点としては、単に痛くて辛くて嫌だという感想しか出てきません。その一方、なぜ殉教者が苛烈な責め苦に耐えられたかというと、これに耐えることにより「永遠の生命」が与えられるという確信があったためとされています[21]

もっとも人間であるがゆえにそこに迷いがあったかもしれないし、後世に伝えられるような立派な話ばかりではなかったかもしれません。たとえば、殉教者はキリストと同じようになることであり、殉教とは喜びに溢れる行為とされ、迫害者はむしろ「神に奉仕している」と捉え、殉教者は迫害者に「感謝し心から許しを与える」とされています[22]。私のような信仰がない者としては、理屈としての納得のしかたはその通りであろうが、人間の感情としてそこまで割り切れたものだったろうかと疑問を抱きます(信仰という内心の問題について、感情より理屈の方が親和性を持つという一見不思議な現象です)。

こうした苛烈な弾圧の実態、それに対する殉教者の心象風景が、実に写実的に楽曲として描かれています。具体的には譜面をもって示したいところですが、ひとつ三連符の効果を指摘したいと考えます。本田作品の特徴として三連符の使用が巧みであるということが挙げられますが[23]、三連符による表現は前後のフレーズとの相対的な位置関係によって、あるところでは脅え、あるところでは迷い、他方で、あるところでは強調、あるところでは前進など、ややもすれば相反するかのような多様な概念を表現できます。弾圧そのものは恐怖そのものであり、そこに一人一人の殉教者に迷いも生じたものと推測します、しかし迫害を受けたとしても結果的には「永遠の生命」につながると信じることこそが信仰でしょう。楽曲の末尾には苛烈な表現とあわせて、まさに天に昇らんとするような神々しい旋律が出現します。結果的に至ることができた「永遠の生命」の本田先生流の表現であったと考えます。

(3)もっとも、本田作品の全てが「わかりやすい」というわけではありません。

「交響的序曲 長崎への道 第三番」はあくまで「わかりやすく」することを意識して創作されたものと思われます。その曲目解説において、本田先生ご自身が「作曲家としてその芸術的表現・・・よりも、愛する六甲学院の生徒諸君、それも特に中学生諸君が、この曲をどう感じてくれるか?、それが最大の関心事」と書かれていたように[24]、意識して「わかりやすく」創作されたものであることは間違いありません。

しかし、あらゆる専門分野に通底することですが、高度な思想性を分かりやすく表現することほど難しいことはないことは、伯友会会員諸兄なら理解いただけるでしょう。

他方で、たとえば本田作品のピアノ曲である「カプリスNo.8」[25]は、言わば現代曲らしい現代曲となっています。明確なメロディは少なく、変拍子が使われていたり、不協和音によって理論通りではない和音進行が用いられたりしています。「交響的序曲 長崎への道第三番」において「現代音楽の持つ高踏的芸術的難解さを意識的に避け」たと記されているところ[26]、裏を返せば「現代音楽の持つ高踏的芸術的難解さ」を持つ一例となるでしょう。

ただ、この「カプリスNo.8」は写実性という点はむしろ明確に打ち出されています。たとえば、川がよどみながら流れる様子、路地裏で遊ぶ子供たちから新幹線が走るさままで表現されています。もっとも、筆者において一般化できるほど、多数の楽曲を分析できているわけではありません。

 

4 本田周司プロジェクトの活動について

以上述べてきましたが、プロジェクトとしては満足な活動は行えていないのが率直なところです。数名のOBにお声かけし、方向性についてご快諾をいただいたものの、何か成果を出したかというと何もなせていません。最大の理由は日々の忙しさにかまけているせいですが、忙しさを理由にしていては何もできません。

25期久保憲一氏及び中谷仁美氏が、六甲歌集に載せられた曲を中心に、ボーカロイドに歌わせ、動画データとしてYouTubeにおいて公開されています[27]。当時音楽部が体育祭で演奏するために、本田先生が提供された「オッコロマーチ」(ROKKOを反対から読んだもの)を楽譜演奏ソフトによって演奏した動画も同様に公開されています。

また、本稿でもご指摘した先輩方から情報提供をいただきましたが、数多の作品群のほんの一部にしかアプローチできていません。

今後なにより、楽譜そのものの蒐集、さらに望むらくは演奏例の蒐集が必要です。本田先生ご家族のご協力も必須でしょう。

もし伯友会会員諸兄のなかに、何か本田先生及び本田作品に関する情報をお持ちであれば、どんな小さなことでも結構なので情報提供いただけると幸いに存じます。六甲が生んだ天才作曲家の偉業を後世に伝えるため、ご協力をお願いします。

50期 藤原唯人 連絡先 E-mail:tadato00@gmail.com

 

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[1] 本田周司(2012年)「『六甲歌集』誕生秘話」 『伯友』61号16ページ

なお、『伯友』57号(2010年)44ページにおいて、本田先生の経歴紹介として「音楽担当教諭として六甲学院に1957年~1990年奉職」という記載があるが、こちらは誤りと思われる。

[2] 六甲歌集は、六甲学院創立20周年記念(1957年時)に初版が発行。平成25年10月10日に復刻版が発行された。

[3] 具体的には、いずれも作曲部門で、第23回(1954年)室内楽曲 入選、第25回(1956年)管弦楽 2位、室内楽曲 入選、第26回(1957年)室内楽曲 2位、第27回(1958年)室内楽曲 入選 作曲部門

毎日新聞社「日本音楽コンクール 入賞者一覧」 https://oncon.mainichi-classic.net/winners/ (令和7年5月4日閲覧)

[4] 「三十周年記念式典」『六甲学院新聞』昭和43年4月28日号

[5] 本田周司(2010年)「老いの繰り言 わが心の師・故武宮校長先生を偲んで」 『伯友』57号42ページ

[6] 本田周司(1987)「二十六聖人記念碑の建立」『六甲』第37号 57ページ

[7] 『六甲学院創立50周年記念 京都市交響楽団演奏会』パンフレット(1987年11月14日)

[8] 1997年3月19日に、京都市コンサートホールにて、京都市交響楽団 黒岩英臣指揮により、「交響的序曲 長崎への道第3番」のほか、その前年に作曲された「コンポジション第2番 Martyres, Ora pro nobis」が演奏された。この際の「第3番」は初演時より短縮されたバージョンであった。

[9] もっとも、目黒三策(1970)『音楽年鑑(昭和45年度)』株式会社音楽之友社 229ページには、昭和4年生まれと記載されているが、誤記であろう。

[10] インタビュー記事(1992)「神様にお任せ、くよくよするな 『長崎への道』を歩む本田周司先生に聞く」『六甲』第42号 27-28ページ

[11] 承前『六甲』第42号 29ページ

[12] 承前『六甲』第42号 16ページ以下

[13] 六甲学院五十年記念誌編集委員会(1987)『六甲学院 五十年のあゆみ』学校法人六甲学院 149ページ

[14] 本田周司(1987)『交響的序曲 長崎への道第三番』長崎への道事務局157ページ

[15] 承前『六甲』第42号 31ページ

[16] 承前『六甲』第42号 32-33ページ

[17] 文献は多数存する。たとえば、ルイス・フロイス著 結城了悟訳(1997)『日本二十六聖人殉教記』聖母文庫

[18] 承前『六甲』第42号 33ページ

[19] 長野宏樹(2022)『家庭の友』2022年6月号 サンパウロ 4-5ページ

もっとも最初に歩いたのは1975年(昭和50年)という記述もある。本田周司(1987)『交響的序曲 長崎への道第三番』長崎への道事務局 5ページ

[20] 鎌谷朝之(46期)(1988)「交響的序曲長崎への道第三番」『六甲』第38号 133ページ

[21] ルイス・フロイス著 結城了悟訳(1997)『日本二十六聖人殉教記』聖母文庫 181ページ 二十六聖人のうちの一人ルドビコ茨木が棄教と引き換えに助命を促された際、「つかのまの生命と永遠の生命を交換するのは意味のないことです」と答えたとされる。

[22] 結城了悟著(2002)『二十六聖人と長崎物語』聖母文庫 10ページ

[23] 承前『六甲』第38号 133ページ 三連符の重要性が指摘されている。

[24] 『六甲学院創立50周年記念 京都市交響楽団演奏会』パンフレット(1987年11月14日)

[25] 1975年3月15日の日付が入っている。38期牛瀧文宏氏より譜面をご提供いただいた。やはり二十六聖人殉教をモチーフにした楽曲であり、総社市辺りから福山市辺りまでの旅程が描かれている。

[26] 本田周司(1987)『交響的序曲 長崎への道第三番』長崎への道事務局 5ページ

[27] https://www.youtube.com/@rok2557

 

(文責:50期 藤原唯人)