伯友会

六甲伯友会のオフィシャルサイトです。

フリン先生を偲ぶ会

「フリン先生を偲ぶ会」について

 

2024年2月4日 11時から四ツ谷イグナチオ教会地下墓地にて

28期瀬本神父様の司式で「フリン先生を偲ぶ会」のミサを無事行う事が出来ました。

23期、29期、35期、41期で総勢32名の会となりました。

 

今後の予定

2024年11月2日(土曜日) 14:30 六甲学院別館にて35期英神父様の司式でミサを行います。

2025年 2月8日(土曜日) 11:00 四ツ谷イグナチオ教会地下墓地で28期瀬本神父様司式でミサを行う予定です。(文責 29期 藤井則雄)

<フリン先生を偲ぶ会 六甲学院別館開催第6回>

開催日:2023年7月22日
17期、29期、35期、50期の総勢22名ご参加頂きました。
六甲学院別館の聖堂にて35期酒井副司教様、英神父様の司式で御ミサを出来た事は幸せでした。
コロナ下で永く集まる事が出来ませんでしたが、ようやく開催に漕ぎ着けました。
自然発生的に産まれたこの会が自主的な多くの幹事様達によって運営されている事にフリン先生の導きを感じます。
次のフリン先生を偲ぶ会は
2024年 2月 4日(日曜日) 11:00
四ツ谷 イグナチオ教会 地下クリプタ にて
井上 潔 神父様に御ミサの司式をして頂きます。

関東地区代表
幹事は23期大谷様
夜の宴会の部の幹事は35期津吉様

(29期藤井則雄)

吉村先生ご退職記念の会

去る2月22日、大阪梅田の新阪急ホテルにて、吉村信夫先生を慕う有志が集い、「吉村先生ご退職記念の会」を開催いたしました。

吉村先生は北海道札幌市のご出身、上智大学をご卒業後、社会科の教員として六甲に39年間奉職され、本年3月をもって惜しまれつつご退任なさいました。カトリックの信者でもあり、在任中は教鞭を執る傍ら、「人生教育」の一環として在学生向けに「人生探検部」(通称、『人探(じんたん)』)、保護者向けには「保護者のためのカトリック研究会」などを主催されました。特に前者は、42期から79期まで参加者数は200名以上にのぼり、先生の薫陶を受けた生徒は数多く、各界で活躍しています。また、人探参加者ならずとも、先生の授業開始時の「よし、はじめましょう。はいどーも、」や、「お~まえさ、」、「だ~まれだまれだまれだ~まれ~、」など、独特な節回しを今も覚えているOB諸氏も多いのではないでしょうか。

当日は本会に先立ち、16時半より、東京からお越しになった外川直見神父(14期・第4代六甲校長)山内保憲神父(49期)の共同司式により、一部在校生も参加しての記念ミサが執り行われました。その後18時より、六甲校歌の斉唱とともに感謝会本会がスタート、外川元校長の挨拶に始まり、参加者代表として、太田匡彦氏(46期)五百旗頭薫氏(49期)(ともに東京大学大学院法学政治学研究科教授)、三浦太郎氏(66期)(三井物産株式会社勤務)、佐伯壮一朗氏(73期)(大阪大学大学院医学研究科所属)の四氏によるスピーチ、吉村先生が定期的に説教を受け持たれている神戸新生バプテスト教会(御影)の代表者や、保護者のためのカトリック研究会の方による挨拶、加えてカンボジアの復興にご活躍中の44期坂野一生氏から寄せられた温かいメッセージの朗読など、約3時間にわたる大変盛大な会となりました。会の最後には吉村先生の奥様からの一言、お二人への花束・記念品の贈呈、そして先生のご子息らも壇上に招いてご家族の写真撮影も行われ、先生にとっても思い出深い日になったことと存じます。なお、本会にご参加いただいた方々は約100名で、六甲OBを中心に在職の先生方、生徒保護者、神戸新生バプテスト教会の皆様など多岐にわたりました。皆様にはこの場をお借りして深くお礼申し上げます。

吉村先生は当面の間、関西を拠点にキリスト教・カトリックの布教活動に引き続き携わられるとのことで、六甲退職は残念ですが、今後より一層のご活躍を祈念しております。

「吉村先生ご退職記念の会」
実行委員
42期 片岡 功一・藤原 和隆
58期 岡本 信秀
66期 荒木 建人

75歳でのキリマンジャロ挑戦

2019年9月3日~9日 20期 瀬川 滋

1.はじめに

山は、中高時代は放送部(現物理部)に所属していて六甲山に登る程度だったし、大学時代も殆ど登ることはなく、NEC就職後から始めた。NECと関連会社社長時代そして定年後勤めた太成学院大学(大阪・堺市)教授時代に休みを利用して山に登り、国内では日本百名山・日本二百名山・各県最高峰踏破等北は北海道・利尻岳から南は石垣島・於茂登岳まで数々の山に登ってきた。しかし海外ではヒマラヤトレッキング(エベレスト街道・アンナプルナ)、カナダ・ウィスラーへのスキー登山、東南アジア最高峰のマレーシア・ボルネオ島のキナバル山(4090m)、台湾では嘗ての日本最高峰の玉山(新高山,3952m)と二番目の雪山(次高山, 3886m)そして武陵四秀(品田山,3524m)に登った程度である。2018年の山仲間の集まりで、

  • 海外の山に年1回は登ろう
  • 次はどうせ登るならアフリカ大陸最高峰のキリマンジャロに最も雨の少ない乾季に、メンバーが高齢なので高度調整ルートを、ついでにサファリも堪能するということが決まった。

最高齢だったので躊躇したが、即決断して手を上げ、今般登ってきたので、以下報告する。

2.キリマンジャロ(以下キリマと略す)

アフリカ最高峰。東アフリカ中部のタンザニアの北東部にあり、独立峰としては世界で最も高く、西から東へシラ峰(3962m)・キボ峰(5895m)・マウエンジ峰(5149m)が連なる。最高峰のキボ峰山頂には直径2.5kmのカルデラと、その内側に直径900m火口があり、最高地点はこの大火口の南縁にある。主な登山ルートとして以下のものがある。

  • ①マラングルート:通称コカコーラルート、唯一山小屋が完備され、水場がきれいで、トイレもほぼ整備され、最も難易度が低く人気は最も高い。
  • ②マチャメルート(下りはムウェカルート) :通称ウィスキールート、景色が壮大でキャンプ地のロケーションも最高で、2番目に人気がある。
  • ③レモショルート(下りはムウェカルート) :最も美しいルート。西の果てから登るため行程が長くて体力が必要、最初から最後まで植生が美しい。
  • ④ロンガイルート:ケニア側(北側)からのルート:爆裂火山を北側から見ることが出来、美しい。

3.出来上がった計画概要

  • 9/1伊丹発羽田・ドーハ経由9/2キリマ空港着
  • 9/3~9/9 キリマ登山
    レモショルート 6泊7日(全テント泊)、テント以外は全て個人装備で日本より持参、ポーターに預ける荷物は15kg/人以内
  • 9/11~9/13 サファリツアー 2泊3日
  • 9/14 キリマ空港発ドーハ・成田経由9/16伊丹着

4.手を挙げた登山メンバー

男子6・女子2名、平均年齢67歳。内2名は現役医師。山経験はそれなり5名、まあまあ3名。全員高山病・気温差(下は熱帯、頂上は-10~20°)・血圧への影響・体力・伝染病等高齢による懸念大。

5.高齢登山への対応

  • しっかりした高度トレーニング:メンバーの内5名は標高0m(富士市)からの富士登山、悪天候で7合目で中断。私ともう1名は剱岳(3年振り)の北ア三大急登の1つ早月ルート(馬場島750m~剱岳2999m、32年振り)に挑戦。
  • 高山病対策:予防薬(ダイアモックス、ザルティア)の服用(←医師のお陰)。それに禁酒・禁煙、腹8分目、十分な水分摂取、ゆっくり歩く、意識的な深呼吸、完全な寒さ対策、昼寝厳禁等の一般常識の順守。
  • 気温差対策:持っている雪山装備フル稼働、義父形見のラクダの下着まで動員。手袋は3ウェイ
  • 乾燥対策:喉が渇いてなくてもこまめな水分補給。
  • 紫外線対策:帽子、サングラス、日焼止・リップクリーム必携。
  • 予防注射:タンザニアは予防注射不要。しかし高齢で不安なため大阪検疫所に是非にと3回申し込んだがワクチン不足で断られ、止む無く断念。
  • VISA取得:入国にはVISA必須。現地空港で取得可だが大変な混雑という。偶々友人が名誉領事(鴻池組名誉会長)と昵懇なので大阪の領事館(鴻池組ビル内)を訪問・懇談。眼前のサインでVISA受給。名誉領事の姿にリトアニア領事館でユダヤ人に大量発給した杉原千畝元領事を彷彿とさせられた。

6.行程

9月1日(日):伊丹20:20発、羽田経由

9月2日(月) :ドーハ(カタール)経由キリマ空港14:00着、空港からモシのリンドリンロッジへ。

ガイドから登山のオリエンテーションを受ける。

9月3日(火) :Lemosho Gate(1800m)~Mti Mukbuba Camp (2650m), 6km

車で管理事務所に向かい、荷物の計量検査を受け、更に車でLemosho Gateに向う。同ゲート14:00発。熱帯雨林の中を、日本とは違う高山植物を楽しみながら猿の沢山いるMukbuba Camp16:45着。既にテントが設立されており、運んで貰った荷物をポーターから受取って宿泊準備後、夕食。

9月4日(水) :~Shira2Camp (3850m),16km

8:00出発、樹林の中を植生の変化を楽しみながら歩く。樹林を脱すると視界が開け、広大なサバンナが広がり、その奥にキボ峰(キリマ本峰)の全容が姿を現す。13:30 Shira1Camp(3610m)着。途中車道(レスキュー用道路?)と交差。やがて日が沈み始め、キボ峰のアーベントロート(夕照)が美しい。19:00 Shira2Camp着

広大なサバンナの向うにキボ峰のアーベントロート

広大なサバンナの向うにキボ峰のアーベントロート

樹林の中の花

樹林の中の花 ジャイアントセネシオ

9月5日(木) :~Barranco Camp (3900m),8km

8:40出発。ゆっくりゆっくり登る。やがてメンバーの1名の歩きが怪しくなり、ガイド・リーダーより下山の宣告。止む無くガイド1名がつき昨日の車道まで下り、本人は車でモシのロッジへ。残る7名で登山。キボ峰が徐々に大きくなり、氷河の白さが浮き立ってきれい。大きな岩がランドマークのようにそびえ立つラバタワー(4642m)まで一旦登って700m下る。勿体ない。下り道にはジャイアントセネシアの林があり、こんな高山なのに林なんて考えられず大感慨。18:40 Barranco Camp着。

9月6日 (金) :~Karanga Capmp (4050m),5km

9:30に出発するとすぐに急壁を登る。一番の難所というがそんなに難しくない。12:10に4250mの峠に着き、今度は谷底まで下る。ジャイアントセネシオの群落が続き、タンザニアらしい世界が広がる。だらだら下って少し上ったら15:00 Karanga Capmp着。途中のアップダウンの繰返しがきつかった。夕方麓のモシの街の夜景が望められた。夜になるとキボ峰の黒に氷河の白が浮び上り、コントラストが美しい。見上げれば満点の星。オリオンは分ったが、見えるはずのサザンクロス(南十字星)がどうしても見つけられなかった。あ~あ、残念無念。

9月7日 (土):~Barafu Camp (4700m),4km

一部のポーターが別ルートで下山し全員揃うのは最後というので、スッタフ全員で労いのお別れダンスが始まる。我々も参加するが、息が切れて途中でギブアップ。彼らは強い。キャンプ場9:20発。道をだらだら登る。いよいよ頂上に手が届き、明日登る道も辿れる。キャンプ場としては最高地点のBarafu Camp 13:20着。狭い場所に沢山のテントがひしめき合い、岩場の隙間を選んで張られている。空気が薄くてトイレに行くのも苦しい。着いてすぐのミーティングで、「21:30頃軽い食事を取り23:00には出発」と告げられ、登頂の支度をして15:30頃から仮眠。

9月8 (日) :~頂上Stella Point(5756m),4km~Mweka Camp (3090m),12km

前夜23:00まばゆいばかりの星空の下、出発。先行するヘッドランプの光が延々と山頂に向かって続いている。見上げる程高い所にも明かりがあり、あそこまで行くのか~と気が遠くなる。最初は岩場で、暗闇の中、足下に気をつける必要があったが、間もなく砂地のジグザグ道。何も考えず一歩一歩進める。やがて朝焼けで辺りが明るくなってくる。6:00マウエンジ峰の向うからご来光。雲が多くあまりきれいでない。残念。歩けど歩けど変化のない登山道は精神的にきつい。空気が薄いためか5700m付近まで来ると、急に足が上がらなくなり、しんどいを実感。這う這うの体で5756mStella Pointに到着。標識にはCONGRATULATIONSとある。富士山を吉田コースで吉田口頂上(3710m)まで登ると富士山に登ったと言えるのと同様、ここまで登ると登頂証明が貰える。やったー!!正にその一言に尽きる。ここからアフリカ最高峰の頂上Uhuru Peakまではまだ1.5時間位かかる。ここまでの上りにリュックを担いで貰ったり、身体を支えて貰ったりしてやっと登った者もおり、とても頂上まで行けそうにない。そんなことでここでTheEndを決断。暫く登頂の感慨に耽ってからの下り。下り専用のザラザラの急斜面の砂道、前のめりになって転げ落ちそうになる。やっとのことで下り切った所に、バラフキャンプで待機のポーターがジュースを持って迎えに来てくれた。その旨かったこと、やっと活きた心地がした。キャンプで小休止の後の長い長い下り。途中にヘリポートが有り、所々に一輪車も置かれている。多分高山病等で歩けなくなった人のレスキュー用だろう。この日は風が強く、それで砂が舞い上がって目や喉が痒い。やがて亜熱帯林の中を歩くが、日が暮れて真っ暗。ライトを照らしても歩き辛い。20:00、やっとMweka Campに到着。この日は本当にきつかった。

浮び上る氷河       マウエンジ峰の辺りからのご来光

浮び上る氷河 マウエンジ峰の辺りからのご来光

ステラポイントでの万歳 登頂証明書

ステラポイントでの万歳 登頂証明書

9月9日 (月):~Mweka Gate (1680m),10km

7:30出発。少し下ると林道に出、歩き易くなる。11:10Mweka Gate到着。長い長い辛くて楽しかった登山もこれで終わりかと思うと胸がジーンとくる。下山届後、車で15:00にリンドリンロッジ着。先に下山して我々の到着を首を長くして待っていた者が顔をくしゃくしゃにして出迎えてくれた。1週間振りにシャワーを浴び、汗と埃と砂を流した後、久々の全員揃っての夕食。ビールの旨かったと、至福。

9月10日 (火)~9月13日 (金)

3つの国立公園でサファリ見学(詳細省略)

像の群れ ライオン

像の群れ         ライオン

バッファローとシマウマ

バッファローとシマウマ

フラミンゴ

9月14 (土) ~16(月)

キリマ空港16:00発、ドーハ、成田、羽田経由、ささやかな打上げ会後伊丹空港16日8:25着

7.登山生活

  • 登山者8名+スタッフ30名(4ガイド+2コック+24ポーター)→計38名の大所帯
  • テント:登山者用4+ダイニング用(8人揃って座れる椅子・机も)1+調理用1+スタッフ用?
  • 登山用個人装備:登山には水3L、防寒衣料、雨具、非常食、ヘッドランプ、カメラ、ストック等持参。それ以外はポーターに預ける。
  • 夜:洗顔用湯→ダイニングテントで夕食・血中酸素測定・ミーティング→個々のテントで就寝
  • 朝:モーニングコール→洗顔用湯→茶(コーヒor紅茶)→預ける荷物提出→ダイニングテントで朝食・血中酸素測定→当日持参用湯配給
  • 昼:先行・設定されてるダイニングテントで昼食
  • 食事は朝・昼・夕3食共フォーク・ナイフのフルコース料理(スープ、肉料理、麺・パン等、フルーツ、茶)
  • 水は近くの流れを汲み上げ、煮沸消毒して利用

8.登山者像

  • 日本人とは全く出会わず東洋人は韓国の2パーティのみ、その他は全て欧米人
  • 多分距離的に近いヨーロッパ人が殆ど?、それも20~30歳代ばかり
  • 中にはスポーツブラ・短パンスタイルのギャルもおり、ここがキリマかと目を疑うばかり
  • 「じじばば」はどこにもおらず我々のみ
  • 宿泊名簿を見る限り75歳は最高齢

9.ポレポレ(スワヒリ語、SlowSlow)

  • 歩くペースはとにかくゆっくりゆっくり、高山でバテない(高山病予防の)歩き方の極意
  • 対面・追越しの登山者も「ジャンボ(こんにちわ)」より「ポレポレ」と声を掛け合うことが多い

10.スタッフ

  • ガイド(4人):会話は全て英語。歩くペースを先導。高山病等に常に配慮。弱っている者に対して背中の荷物を分担してくれたり、リュックを肩代わりしてくれ、時に腕や肩を貸してくれる。とにかく頂上を踏ませるんだという気概が凄い。リーダーは常に明るいコミュニケーションに気を使い、時には厳しく下山指示まで行う。
  • クッカー(2名):登山者のフルコース料理に加え、スタッフ全員分の調理や、洗い等も行う。
  • ポーター(24名):1人当り上限20kgの荷物を預かる。他にテント・食事の材料(全行程・全員分)等に加え自分用荷物も運ぶ(結局40kg位/人?)。入山時にポーター荷物の重量チェック有(←過酷な仕事ゆえ、身体を壊すことの防止)。テントの設営から撤収までも行う。テント撤収後、重い荷を頭に担いで登山者を追い越して目的地に先に到着し、テント設営して到着を待つ。水の無い宿泊地では近くの水場から水を運び上げ、場合によっては前のキャンプ地から運ぶ。
  • スタッフは意外に薄給らしく、チップに頼っている。その配分は全てガイド・リーダーの権限。

11.気候

  • キリマ山麓、サファリ共冷涼な気候。昼間は暑くても湿気が無いので日陰は快適。感覚的には日本の軽井沢の気候。半袖・半ズボンは不向き、総じて「ここが灼熱のアフリカか?」って感じ。
  • 山は昼間は移動しているのでそこそこだが、夜は寒い。標高4000m付近ではシュラフ・シュラフカバーは勿論暖かい下着にダウン着用で寝る。標高4700mでは身体の要所にカイロを張った。
  • 標高5700m付近は酷寒。気温はー10°(体感温度はもっと低い、手袋を脱ぐと指先が紫色に)

12.レスキュー

体制がしっかりしており、その費用は入山料に含まれている。場所により車かヘリコプターで下山させる(そのための林道とヘリポートが完備)。そこまで運ぶための一輪車(運ぶ人は大変だが、運ばれる人の負担が少いという)が随所に配置。保険は海外旅行保険で良く、山岳保険は不要。

13.おわりに

75歳でのキリマ登山、5700m超では、どこも痛くないのに今まで経験したことの無い苦しさを味わった。しかし高山病対策とはいえ、最も長く、美しいルートを歩き、キリマの様々な姿(アーベントロート、ご来光、白く浮かぶ氷河、4000m近くに広がるジャイアントセネシアの群落等々)が眺められ感無量。また登山人生最高地まで登れて感慨一入。1人アウトだったが残る7人が全員無事登頂出来て至福。そして最初から最後まで尽くしてくれたスタッフの気概、全てが最高だった。それにしてもイギリスが築いた登山文化が徹底されていることを改めて実感した山行でもあった。それと今回の登山を支えてくれた全ての人に感謝・感謝。それもこれも健康あってのこと、近所の山への毎日登山のお陰でもある。

第5回フリン先生を偲ぶ会(神戸)のご報告

第5回フリン先生を偲ぶ会ミサ後の集合写真

2019年7月27日(土)に、母校のお御堂および別館106号室にて、フリン先生を偲ぶ会を開催しましたので、ご報告します。

今回も、東京から井上潔先生をお招きして、御ミサを執り行って頂きました。今年から別館106号室を「フリン先生メモリアル・ルーム」として、利用させて頂けることになり、そのお披露目も行いました。また、新たに寄贈されたCDプレーヤー(リピーター)を常設しましたので、フリン先生の声を聴くことが出来るようになりました。

ごミサへの出席者は、添付の写真の通り、井上先生をはじめ、35期2名

(大橋さん、津吉さん)、29期6名(金子、北村、高橋、藤井則雄、真弓、松本宏)の合計9名でした。

阪急六甲での懇親会には、井上先生、35期2名(澤田さん、津吉さん)、29期は入江、田原進が加わり、合計11名が出席しました。

来年は、フリン先生生誕100周年にあたるので、多数お集まり頂いて、お祝いをしたいと思います。

文責 29期 松本 宏

フリン先生を偲ぶ会(東京)のご報告

フリン先生10周年ミサ後の集合写真

2019年2月17日(日)に四谷イグナチオ教会で行ったフリン先生しのぶ会(10周年)の報告をします。

今年も、地下のクリプタで35期の英神父司式追悼ミサに与り、ミサ後、祭壇のフリン先生の写真を囲んで全員写真を撮りました。

その後、先生のお墓参りをしました。ミサには34名が出席しました。その中に、泰星学園(現福岡上智)時代の教え子夫妻とご両親も含まれていました。

例年通り、中華料理店(京華園)で懇親会をしました。
今年は、各期毎に集まって懇談し、フリン先生の思い出話はあまり出ませんでしたが、全会一致して来年以降もしのぶ会を続けることになりました。

最後に校歌を歌って解散しました。

懇親会の参加者は合計32名でした。ミサのみ参加は3名
17期 1名、23期 13名(懇親会12名)、29期 6名、35期 14名(懇親会12名)、
41期 1名

文責:23期 大谷 秀二

母校(別館・お御堂)にて実施したフリン先生を偲ぶ会 (第4回)の報告

日時:2018年3月24日
場所:母校(別館・お御堂)

参加者は、井上先生(司祭)、古泉校長、23期 1名、29期 7名、41期 1名の合計11名でした。井上先生にお願いし、今回から各期の物故者も偲ぶごミサにして頂きました。来年は、可能な範囲で各期の物故者のご氏名も、読み上げて頂き、フリン先生と共に偲びたいと思います。

次に、別館の清掃ですが、毎年、精一杯の清掃を実施しているお蔭で、たいへん綺麗な状態が維持されていました。来年以降は、清掃の時間は15分ぐらいとし、遺品・教科書等の見学、及び、フリン先生の声(音声CD)を聴く時間をしっかり取りたいと思います。

古泉校長による新校舎見学では、まず最初に本年4月から、全校生が使用する新しい徽章が披露されました。また、初めて屋上に上がり、立派なソーラーシステム(夏場の最も暑い時期でも使用電力をカバー出来る)のご説明も頂きました。伝統ある校舎の姿を残しながら、最先端の設備もうまく配置されており、感心しました。

懇親会では、フリン先生を偲ぶ出席者各自からのメッセージは、いつもどおり、大変面白く、また、興味深く、この会を開催出来て、本当に良かったと感じるひと時でした。

文責:29期 松本 宏

四谷イグナチオ教会で行ったフリン先生を偲ぶ会(9周年)

日時:2018年2月11日
場所:四谷イグナチオ教会

3年連続で、地下のクリプタで35期の英神父司式追悼ミサに与り、ミサ後、祭壇のフリン先生の写真を囲んで全員写真を撮りました。その後、先生のお墓参りをしました。

今年は、参加者が多く、ミサには40名が出席しました。

例年通り、中華料理店(京華園)で懇親会をしました。

今年は、ほとんど各期毎に集まって懇談し、フリン先生の思い出話はあまり出ませんでしたが、29期の藤井則雄さんがプログレスのプリント(活字版)を持参してくださいました。

また、久しぶりに41期が参加し、挨拶をしてもらいました。最後に校歌を歌って解散しました。

懇親会の参加者は合計37名でした。ミサのみ参加は3名

17期 3名
23期 11名(懇親会10名)
29期 7名
35期 15名(懇親会13名)
41期 4名

文責:23期 大谷 秀二

アンコールワット・ベトナム旅行のトラブル&珍事

今年のむとせ会有志による海外旅行はカンボジア/アンコールワットとベトナムでした。ちょっとしたエピソードをご紹介します。

勝手な通訳にご注意!

ホーチミンの代表的な有名ホテルであるホテル・マジェスティック最上階の「M’s Bar」での出来事。
前日に二人が下見をし、旅を振り返る旅行最終日の夜にふさわしい眺めのよい席を予約しておいた。
席に着くと巧みな日本語で注文を捌いてくれ、ウィスキーをワンショットずつ注文して気持ち良く呑んでいた。ところが乾季には珍しく突然雨が落ちてきたので屋内の席に移動することに。我々と一緒に注文していないウィスキーのボトルもついてきた。ボトルがテーブルにあるのを不審に思い注文を捌いた男を呼ぶと、男は「二杯三杯と飲むとボトルの方が安いのでボトルを注文した」と言う。男はボーイと同じような黒い服装だが制服ではない。飲み助は二杯三杯と勝手に注いでボトルの半量ほどを空けていた。しかたなくボトルの半額を払うつもりで、手書きの勘定書きを細かくチェックすると、ボトルの半額より高めのボトル料金に飲み代とほぼ同額のミュージックチャージ料が書かれていた。すったもんだのあげくボトルの料金を半額に訂正させ、支払おうとすると現金で支払ってくれと言い始めた。私たちの旅行は帰国後の精算のためにクレジットカードを使用することが多い。ホテルのレジへ行き、ホテルの請求書をみるとミュージックチャージ料は記載されてない。男はミュージックチャージ料と称する金額を横取りする目的でホテルのボーイとグルになり手書きの勘定書きを示し、現金での支払いを要求したのだ。男は『儲け損なった』というような顔をしてトボトボと帰っていった。
賢明な六甲伯友会の諸兄には余計なお世話かも知れないが、海外旅行の時は勘定書きを必ずチェックすることが必要だ。今回のように英語で書かれていれば細かくチェックできるが、現地語で書かれた明細は読めない。しかし品数を数えるだけでも効果はある。そして巧みな日本語で近づいてくる人物(日本人を含む)には充分ご注意を。

支払は簡潔に

再びお金に係わるエピソード。
カンボジアの最終日、ガイドへの心づけのつもりで彼お薦めの土産を買った。それぞれが自分の支払額をガイドに手渡せばよかったのだが、揺れるバスの中なので後方から順繰りにお金を送っていった。しかし合計金額がたりない。酷暑の中で観光したあとの疲れた頭では勘違いも起こる。未だに原因は不明のまま。

人使いの荒いベトナム

ベトナムへ初めて訪れたときにサービス精神のない国だとの印象があった。十数年ぶりの訪問でもその印象はあまり変わっていない。
例えば普通のレストランではテーブルサービスのとき客のあいだに身体を斜めにして入ることをせず後の方から客に料理を渡したり、空いた器を客にとらせたりすることを平然とするのだ。気のよい連中は郷に入っては郷に従えと腹を立てることもない。もちろんホテルや一流のレストランでは洗練されたサービスを受けることができるが、十数年前にはそれもなかったので進歩していることは間違いない。

愛犬家のみなさまへ

今年でいよいよ51 歳、後期アラフィフ突入です。
LA伯友会の諸先輩からすれば「若いなぁ」になるのかもしれませんが、今の私が「若い」と言われそうな場所は、ついにここだけになってしまいました。
50歳ってもっとなんというかしっかりしたものだと思っていたのですが、中々現実は・・・
多分41期生の私が卒業した頃、佃先生が今の私ぐらいだったと思いますが、今思い返すとバケモノですね。

実は、ここ数年、LAで保護犬団体のボランティアをやらせてもらっています。
犬の保護活動を少しかじって感じるのですが、犬を取り巻く世界も、あの頃と今では大きく変わってきたようです。

私が初めて飼った犬は、友達の家で生まれた仔犬でした。
その友達の犬が死んだあと、ウチで生まれた仔犬をあげたりもしました。

その頃は、ウチの周りでは大体そんな感じだったと思います。。
お金持ちの家が、血統書付きの犬を飼っていたりということはあったのかもしれませんが、犬をお金を出して買うって言うことは、そのころ私が住んでいた奈良の田舎では聞いたことがなかった気がします。

飼うのはもちろん外飼い。
犬が家の中に入るなんて、考えられないというか、考えたこともありませんでした。

今は、どちらかというと室内飼いが主流になってきているように思います。
と言っても、日本を離れて27年、今の日本がどういう状況かはわかりませんが、ここLAでは外飼いが目立つのは、どちらかというとちょっと危ない地域になります。

時代や環境が変わることで、犬の状況も変わってきたということですね。
すごくおおざっぱに言ってしまうと、人間の生活と犬の生活が昔よりも大きく重なり合っているように思います。

この環境の変化の中で、犬の問題も随分と増えてきました。
無駄吠え、噛みつき等ももちろんそうですが、多分一番の問題は増やしすぎ、ということじゃないかと思います。

アメリカのペット保護団体最大手であるASPCAの統計によると、現在アメリカで飼われている犬は推定で7~8千万頭。これはちょっとすごい数字で、お隣の国、韓国の人口が約5000万人ですから、それをはるかに上回る数の犬がアメリカにいることになります。

その中で、シェルターと呼ばれる捨て犬の収容施設に入れられる犬が毎年約400万頭。実に神戸市の人口の2倍を大きく超える犬が毎年収容されています。そしてそのうちの約140万頭が運よく新しい家族を見つけ、約120万頭が毎年殺処分ということになっています。

シェルターや保健所というのは、もともと殺処分をする施設ではなく、放浪犬など飼い主からはぐれた動物の保護施設です。
それでもその収容能力には勿論限界があり、それを超える時、仕方なく殺処分という方法がとられます。アメリカの場合、その犬が放浪犬だった場合、つまり飼い主が分からない場合は飼い主からの連絡を待つということで比較的長く保護されますが、飼い主が直接持ってきた場合、殺処分のタイミングはずっと早くなり、そのシェルターの収容状態によっては1週間前後がリミットになってしまう場合もあります。

日本の現状でいうと、殺処分の数は大きく減っています。
私が初めて犬を飼った昭和40年代後半には年間1000万頭を超える犬が殺処分されてたそうです。
あの頃は、確かに野良犬をしょっちゅう見ていた気がします。だからこの頃の殺処分は野良が中心だったのでしょう。
今はどうかというと、環境省の発表によれば、平成26年度の統計で2万頭強だということです。
激減と言っていいと思いますが、内容を見ると今は飼い主の持ち込みが大半を占めているそうです。
日本の場合、短ければ保健所で生きていられるのは2泊3日
持ち込まれた日を1日と数えるところと、次の朝からカウントする所があるようですが、これがタイムリミットです新しい飼い主が見つからなければ、それで終わりです。
もちろん、保健所に余裕がある場合はもっと長く滞在できることもあります。

これを何とかしようとしているのが、民間の保護団体ということです。
行政も頑張ってくださっていますが、なんといっても税金ですし、この社会は犬好きばかりではありません。全員が犬好きで、みんなが犬を助けたいというのなら税金も沢山使えるのでしょうが、もちろんそんなことはありません。だから、犬好きが起こす犬の問題は、犬好きが何とかするしかないという当たり前の結論になります。なんとか、救える命は救ってあげたいと。

ただ、前述の通り、数が数ですから、全部という訳にはいきません。
また、安易に「殺処分0」を掲げると、また新たに問題が起きたりもします。
というのは、以前「殺処分0」を掲げた自治体があったのですが、近隣からその自治体に捨て犬が殺到するという事態になりました。みんな捨てはするけど、殺されるのは夢見が悪いんですね。
また、殺されないという前提が出来てしまうと、捨てるということのハードルがぐんと下がります。
気に入らなければ捨てればいい、ということにつながってしまうんですね。

実際、ウチの団体では、持ち込みは原則お断りしています。
自分でシェルターに持って行ってください、あなたのせいでこの犬が殺されるかもしれないという経験をしてください、ということです。
稀に引き受ける時もありますが、その時には犬を捨てる飼い主からお金をいただきます。
何もなしで引き受けて、あそこに持っていけば大丈夫なんて噂がたてば、うちなんかあっという間にパンクするからです。

では、殺処分0を目指さないなら何を目指すのか、というと、「捨てる飼い主、捨てられる犬0」を目指しています。
殺処分0で捨て犬の受け皿を大きくすると、結局犬を捨てるという蛇口が大きく開いてしまうことにつながるので、その蛇口を少しでも閉めることが先決だということです。

お手伝いするようになって3年ほどたちますが、その間に数百頭の犬が新しい家族に迎えられました。
そのうちで、私が知る限りで戻された犬(お試し期間を除く)はわずか数頭です。

私自身がやっていることとしては、最初は掃除や散歩の手伝いだけでしたが、ほどなくして「預かり」も始めました。

「預かり」は、飼うのではなく保護犬のままで自宅でその世話をすることです。保護犬の施設では様々なトレーニングが施されますが、そこでできない「実際の家庭」での環境に慣れさせることが目的です。といっても、実感としては普通に自分の犬のように可愛がって叱って遊んで生活するだけです。

その数が現在までで27頭。最近の犬は長生きするようになって、小型犬なら15年~20年は普通に生きます。それを27頭ということは、一頭ずつ飼っていれば400年ぐらいかかる話ですが、預かりならそれが3年ほどで経験できてしまいます。色んな種類、いろんな性格の犬と一緒に暮らすというのは、本当に面白いですね。一緒に暮らしていた犬がいなくなるのは寂しくないですか?とよく聞かれたりしますが、これは嬉しくて寂しくて嬉しい不思議な感覚です。教師が卒業生を送り出すのに似ているかもしれません。

今、日本でも多くの保護団体が、死に直面している犬をなんとか一頭でも多く救ってやろうと頑張っています。3万頭に近い保健所収容の犬を全部救うのは不可能に思えますが、それでもできる範囲で頑張っています。でも、もうちょっと輪が広がれば、決して不可能なことではないと思います。

伯友会の「犬好き」の皆さん、すでに犬を飼ってらっしゃる方、これから飼おうと思っていらっしゃる方、そのチョイスに是非「保護犬」を加えてやってください。
飼うっていう決心がつかない方、転勤が多くて犬を飼うのをためらっている方、海外赴任で犬を飼えないと思ってらっしゃる方、「預かり」って手があります。是非お近くの保護団体にお問い合わせください。
今日本で犬を飼っている世帯の数は約800万。このうちのわずか0.4%のお家が保護犬を迎え入れてくれることが出来れば、日本中の保健所が空っぽになります。
こうしてみると、決して不可能ではないと思うんですよね。

(41期:牧野明久)