伯友会

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支部だより

第25回六甲伯医会懇親会

25回六甲伯医会、写真、15-6-27

第25回伯医会が井尻会長の下、古泉校長先生をお迎えして開催され、そこに参加させて頂きました。久しぶりに参加しましたが、全員六甲出身者だという安心感と懐かしさで、すんなりと皆さんの中に入り込む事が出来ました。私は長い間大学勤務をしておりました。その間、母校をはじめ、秋田大学、滋賀医科大学、大阪大学に授業に行きましたが、必ずと言っていいくらい六甲出身者がいたのを頼もしくも嬉しく感じたのを思い出します。平成20年10月から、神戸市立医療センター中央市民病院に迎えられ、8年目を迎えようとしています。当地に参りましてからも、神戸大学をはじめ、兵庫医科大学、また神戸市内外の病院に六甲出身の先生方が多く活躍しておられ、この間、多くの先生方のお世話になって参りましたが、当地に来させて頂きました事、あらためて感謝致しております。

さて、私たちの学年は、今年六甲卒業50周年を迎え、9月には母校六甲学院に集う事になっています。記念集を発刊するという事で、拙文を寄稿しましたので以下を記載させて頂きます。皆様の益々のご発展を心から祈念いたしております!

「六甲学院の思い出」

思いもかけず、六甲学院卒業以来43年ぶりの平成20年10月から、神戸市立医療センター中央市民病院に迎えられ、8年目を迎えようとしている。しかも、病院の宿舎が六甲学院の坂の中腹に位置していようとは、神様のいたずらには驚かされた!後輩達が坂を上ってくるのを見ながら、彼らの未来に幸多かれと祈るこの頃である。

私が、静岡大学付属島田中学二年の夏頃だったと思うが、両親から六甲中学3年への編入試験を受けるよう言われ、まだ中2の勉強をしているときに、六甲中学の2年、3年の勉強を3か月でするようにと六甲中学の教科書を渡された。数学はまだしも、古文、英訳には手を焼いたのを覚えている。

滝沢君、岩永君と私が編入を許された。六中3年時に編入しびっくりしたことが有る!それは、外人神父(ドカン)が関西弁でしゃべることであった!何れにしろ、中3春から高1の教科書を勉強するので、最初の3か月は皆に追いつくのに必死で、夏休みには、補習授業を受ける科目があったと記憶している。あの頃は、晩熟で身長も低く、前から4番目ぐらいで、漸く、夏過ぎ頃声変わりし始めたのを覚えている。高校1年時の頃には178センチほどになっていた。次第に自信を取り戻し、弓道部に入部し、部活にも気合が入り、友人に恵まれ、楽しい高校生活を送ることができた。

父親の仕事の関係で、転校には慣れていた。昭和27年4月に母親の里の東京から、京都府竹野郡和田村にある保育所に、28年から同村立溝谷小学校に通っていた。雪の降りしきる夜、両親から来年4月から、芦屋市立山手小学校に転校を言われ、ようやく楽しくなってきた田舎の生活に別れを告げ、大都会の小学校に通う事になった。芦屋に来ると私より勉強のできる子が居て、親から叱咤激励を受けたように思う。その年の秋頃、また両親から転校を告げられ、昭和30年4月から静岡県島田市立第四小学校に通う事になった。しばらくは、島田に住むことになり、大井川に魚釣りに行ったり、裏のがけ山に肝試しに友達と一緒に登ったり、焼津の浜に泳ぎに行ったり、真の小学校生活を満喫できた。中学は、静岡大学付属島田中学に入ることができ、県立静岡高等学校への進学コースにいた。この頃、父親は今までの数回にわたる、無医村に近い診療所廻りの教室人事から抜け出し、島田市長の要請で、市立島田市民病院院長に就任していた。ところが、この父親は、あらぬことを考えていた。エチオピア皇帝の侍医に応募していたのだ!京都大学の恩師に報告に行ったが、将来政変の危険性があると指摘され、その思いを断念せざるを得なかったようである。既に市長に辞表を出しての決意であったらしく、新たな職場探しをしなければならず、結果として、その煽りを食って、私が六甲中学の編入試験を受けざるを得なかったわけである。私としては、ここで良き友に会うことができた訳で良かったと思っている。実は、静岡時代に神父になるように勧められた私には、武宮隼人校長、武庫和照S.J.の出会いに特別な思いがあるが、それは50年前の思い出にしたままが良いと判断した。皆様のご多幸を祈念する。

【文責:22期 北徹 京都大学名誉教授・神戸市立医療センター中央市民病院長】