伯友会

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アンコールワット・ベトナム旅行のトラブル&珍事

今年のむとせ会有志による海外旅行はカンボジア/アンコールワットとベトナムでした。ちょっとしたエピソードをご紹介します。

勝手な通訳にご注意!

ホーチミンの代表的な有名ホテルであるホテル・マジェスティック最上階の「M’s Bar」での出来事。
前日に二人が下見をし、旅を振り返る旅行最終日の夜にふさわしい眺めのよい席を予約しておいた。
席に着くと巧みな日本語で注文を捌いてくれ、ウィスキーをワンショットずつ注文して気持ち良く呑んでいた。ところが乾季には珍しく突然雨が落ちてきたので屋内の席に移動することに。我々と一緒に注文していないウィスキーのボトルもついてきた。ボトルがテーブルにあるのを不審に思い注文を捌いた男を呼ぶと、男は「二杯三杯と飲むとボトルの方が安いのでボトルを注文した」と言う。男はボーイと同じような黒い服装だが制服ではない。飲み助は二杯三杯と勝手に注いでボトルの半量ほどを空けていた。しかたなくボトルの半額を払うつもりで、手書きの勘定書きを細かくチェックすると、ボトルの半額より高めのボトル料金に飲み代とほぼ同額のミュージックチャージ料が書かれていた。すったもんだのあげくボトルの料金を半額に訂正させ、支払おうとすると現金で支払ってくれと言い始めた。私たちの旅行は帰国後の精算のためにクレジットカードを使用することが多い。ホテルのレジへ行き、ホテルの請求書をみるとミュージックチャージ料は記載されてない。男はミュージックチャージ料と称する金額を横取りする目的でホテルのボーイとグルになり手書きの勘定書きを示し、現金での支払いを要求したのだ。男は『儲け損なった』というような顔をしてトボトボと帰っていった。
賢明な六甲伯友会の諸兄には余計なお世話かも知れないが、海外旅行の時は勘定書きを必ずチェックすることが必要だ。今回のように英語で書かれていれば細かくチェックできるが、現地語で書かれた明細は読めない。しかし品数を数えるだけでも効果はある。そして巧みな日本語で近づいてくる人物(日本人を含む)には充分ご注意を。

支払は簡潔に

再びお金に係わるエピソード。
カンボジアの最終日、ガイドへの心づけのつもりで彼お薦めの土産を買った。それぞれが自分の支払額をガイドに手渡せばよかったのだが、揺れるバスの中なので後方から順繰りにお金を送っていった。しかし合計金額がたりない。酷暑の中で観光したあとの疲れた頭では勘違いも起こる。未だに原因は不明のまま。

人使いの荒いベトナム

ベトナムへ初めて訪れたときにサービス精神のない国だとの印象があった。十数年ぶりの訪問でもその印象はあまり変わっていない。
例えば普通のレストランではテーブルサービスのとき客のあいだに身体を斜めにして入ることをせず後の方から客に料理を渡したり、空いた器を客にとらせたりすることを平然とするのだ。気のよい連中は郷に入っては郷に従えと腹を立てることもない。もちろんホテルや一流のレストランでは洗練されたサービスを受けることができるが、十数年前にはそれもなかったので進歩していることは間違いない。

ヘンロ道をヘンコが往く

菅笠を被り遍路姿に一歩近づいた

私は人の言うことに素直にうなずけない。形式的なこと、儀式的なことが大嫌いな偏固である。そのヘンコが遍路道を歩くことになった。遍路とは空海=弘法大師が修行で歩んだ道を辿り八十八ヶ所の霊場で納経する修行を指し、すべてを廻りきると結願となる。何を思ったのか女房が友人と遍路をすると言い出した。ツアー利用を考えていたようだがあいにく友人とのスケジュールが合わず、一度に全てを廻る通し打ちの歩き遍路を一人ですることを選んだ。何回かに分けて巡るのを区切り打ちという。

しかし、資料をみているうちに不安になったのか、自身の誕生日に「これが私への最高のプレゼント」と言ってヘンコ用のザックを買ってきた。半ば強制的につきあいを求められたことになる。彼女一人では道に迷うことは十分予想でき、宿の予定をフォローしなければ不安がある。50日余りの独身生活を密かに楽しみにしていた心優しいヘンコはサポート役として渋々遍路道を歩くことにした。ほとんどの民宿が営業を始める3月まで出発はできない。となるとヘンコは都合で3週間だけしか同行できない。出発までの10日間は10kgの荷を背負い20km以上を歩く足慣らしなどをして慌ただしく備えた。

礼拝の作法や儀式的なミサが腑に落ちず高三まで公教要理を受けたにも関わらず受洗しなかったヘンコは、遍路道を辿る歩きが修行そのものと解釈しているので全ての札所には行くものの作法通りのお参りはしなかった。

各霊場でお遍路が行う納経とは、山門への入り方からはじまり、手水場、鐘楼、本堂でのローソク・線香の立て方、本堂、大師堂に参り、そこでおおよそ決められた手順に従って読経し、その証として納札(おさめふだ)を納めてから納経所で納経帳に墨書・朱印をいただく一連の所作を指す。かつては木製や金属製の納札を山門や本堂の柱などに釘で打ちつけていたことから、遍路自体や、札所に参拝することを「打つ」という。遍路装束は白が基本とされ、「南無大師遍照金剛」と背に書かれた白衣を着用し仏に帰依する意味で身につける輪袈裟を首にかけて最必須アイテムである弘法大師の化身とされる金剛杖と数珠を持ってお参りするのが一般的なスタイルだ。天の邪鬼なヘンコはそこからできるだけ離れた恰好をと考え、軽登山の服装・装備で出発した。金剛杖は弘法大師の化身なので扱いにいろいろ決まりがある。しかし、その扱いを守っている人は少ない。「作法が守れないなら金剛杖や数珠などを持たない自分流の方が良いですよ」と7回お遍路をした僧籍を持つ人から後々伺った。

歩き遍路はハッキリした数字は不明だが一日平均10人前後といわれている。現在のお遍路はほとんどが車利用かツアーでのバス利用である。歩き遍路で結願するとどうもやみつきになるようで、その半数以上は2回目・3回目以上のリピーターだ。少人数なので途中で抜きつ抜かれつするものの出会うのはほとんど同じ人。先輩達の話は初心者の我々にとって貴重な参考となった。お寺で出会うお遍路は私を除くとほぼ全員が金剛杖を持ち菅笠を被り白装束だ。車、バス利用の方のほとんどはシャツやズボンも白で作務衣のような白衣に靴まで白い完璧な装束だが、歩き遍路はチョッキタイプの白衣が多くトレッキングパンツにザックを背負って、ウォーキング・シューズを履いているのですぐ見分けがつく。しかし参拝作法は変わらない。

何一つお遍路らしい装備をしていなかったヘンコも日焼け、雨対策として途中で菅笠を購入した。その効果は大であった。おまけに菅笠を被ってからお接待を受ける場面が増えたように感じたのは気のせいか。

遍路道についてはいくつかの団体からガイドブックや地図が発売されている。事前に購入した地図は遍路用品の販売所でも売られており、他の歩き遍路の方も持っておられたので定番なのだろう。休憩所、宿、トイレなどの情報が記入されていて重宝した。各頁ごとに編集されている地図は、遍路道の進行方向が右から左、あるいは上から下へとなるように描いており必ずしも北が上になっていないのと縮尺もまちまちで慣れないと勘違いしやすいのが難点だった。

当然のことながらマラソンコースのようには道路にラインが引かれていないので迷ったと言う人が多い。各団体の手によって分岐点の前後には遍路道の表示や進行方向を示す小さな矢印などがガードレールや電柱に貼られていた。しかし疲れてくると見落とすこともある。何人かで歩いていると間違いに気づきやすいがほとんどの人が一人歩きなので誤りを犯しやすい。

通常一日30kmくらい、健脚で40kmほど歩くらしいので、私たちも当初30kmで予定を立てたが、休息日なしで連日30kmはきついので20kmを目処に変更した。それくらいが無理をせず最後まで続けるコツだとおっしゃっていた遍路3回目の先輩とは数日間同じ行程だった。それでも宿の都合で30kmほど歩いた日も多かった。無理がたたり途中で自宅へ戻らざるを得なかった方もいた。

遍路道は旧往来・街道なので新しく造られた国道、県道などから外れていることが多々ある。集落などでは生活道路、路地といったところも通るし、田畑の中のあぜ道のようなところもある。この様なところは歩くのが楽しい。しかしほとんどが国道、県道のような車の往来があるところで、しかも歩道のない道も多い。山の上にあるお寺もあり未舗装の山道を通ることもあるが、全行程の8割ないし9割以上は舗装された道路だ。
道中癒やしてくれたのは花だった。梅、桃、少し早いが山桜、里にはすでに満開近い桜など。菜の花、レンゲも目にした。花ではないが徳島県勝浦町生比奈地区では家々の軒先にお雛様を飾り目を楽しませてくれた。何台ものバンの荷台に雛壇を飾っている自動車販売店もあった。

お遍路道は限界集落をたくさん通る。特に林業の盛んだった山の中腹や麓には人気のない人家が多く、廃校跡もたくさんあった。山だけでなく海辺の集落も同じような状況だ。

3日目には早くも最初の試練「へんろころがし」と呼ばれる遍路道の最初で最大の難所を通ることに。距離は13kmほどだが標高700mの寺へ行くのに一旦750mまで登り、400mまで下りたあと2.5kmで残り300mを再び登らなければならない。7日目は、前日に30kmほど歩き少々疲れたところで500mの山を二つ越えて再び1日で1000m登る経験をした。また登るのが分かっているので「無駄な下り坂は要らん! 橋を架けてほしい」と思った。

山道で苦しめられたあと、これから数日は国道とはいえ平坦な道を歩けるものとホッとしていたら、8日目は全国各地で春一番が吹いた荒れ模様の天気。四国を低気圧が通過し、午後には通り過ぎるとの予報に同宿の人たちと遅めに宿を出て雨が上がった後の行程を増やそうと目論んでいた。しかし民宿の女将さんにチェックアウトは9時、連泊はダメと言われ全員渋々台風並みの土砂降りの中を出発した。何でこんな日に歩かなアカンねんとぼやきながら歩いているとき、教室の窓から「お遍路さん頑張って?!」と小学生達に声をかけられ、嬉しくなって歩みに弾みがついた。

常識的にはこのような予報の日は翌日に延期するものだが、民宿の場合は兼業が多く昼間は宿に置いてくれないし、数日先まで済ませている宿泊予約を全て変更しなければならないのでそうはゆかない。結果は靴の中はもちろんレインコートの中まで雨が染み込み全身ずぶ濡れになって宿に着いた。ザックはレインカバーをつけていたにもかかわらず背中側から雨が染み込み、中身は全て濡れていて、この日の部屋は満艦飾となった。それでも昨日のふた山越えを晴天の中で済ませた我々はまだラッキーだと同宿者となぐさめあった。

この辺りまではほとんどの人が同じ行程で来ており、顔なじみとなった人が多かった。宿では情報交換したり談笑したりするが、日本人故なのかお互い名前を名乗らず、出身地などで区別して会話をする。ここから室戸岬までは札所はなく海沿いの国道が80kmほど続く。宿は少なく食堂はもちろんコンビニも自販機もほとんどないので無補給道路と呼ばれている。個々で行程が違うので顔なじみとなった方々とはここでお別れとなる。

お遍路は札所を巡拝するだけでなく宿を結ぶ道中でもある。民宿が主でお寺には宿坊、都会に近いところでは旅館、ホテルの選択もできる。二食付き6,500円から7,000円ほどの料金で設備や食事内容もほとんど変わらない。あるホテルではお遍路割引をしてくれたが高めだった。しかし寝起きの楽なベッドは魅力だ。ところによっては私たち一組だけという民宿もあったりで、一日に数人だけを泊める民宿が存在するだけでも有難い。民宿はたいてい予備の宿泊スペースがあり、歩けるところまで歩き行き当たりばったりで泊まることもできる。ただし相部屋で食事がないのを覚悟しなければならない。また、宿坊といっても旅館並みの床の間つきの部屋であったり、食事を部屋でいただけるところもある。洗濯機、乾燥機は有料・無料の別はあってもほとんどのところが備えている。私たちのように3時頃までに着けば順番待ちすることなく使用できる。中には洗濯をしてくれる宿もある。タオル、浴衣も用意されているので宿の中では素っ裸に浴衣一枚で過ごすつもりなら着替えは必要ない。ただ靴下は予備を持っている方が安心だ。汗をかき湿った靴下だとマメができやすい。用心深い人は1時間ごとに靴下を替えザックの後ろにぶら下げて乾かしながら歩く。私がマメに悩まされなかったのは山道具屋のすすめで靴の中敷きを堅いものにしたお陰ではないかと思っている。もうひとつテーピングテープもマメ対策に有効だった。

予約した宿では夕食、朝食をお腹いっぱい摂ることができる。前述の無補給道路以外でも食事のできるところはほとんどないので、宿によってはおむすびをお接待として無料で持たせてくれる。有料で用意してくれるところもある。幹線道路を外れたコースではコンビニもない。
ガイドブック等で装備の指導もしているが実際には多すぎる。ガイドブックを参考に準備した私たちは途中でかなりの荷物を神戸に返送した。すると準備した荷物にあわせて購入したザックそのものが重く感じられるようになった。

お接待という文化が定着している。地元団体等の好意で屋根付きでベンチを備えた遍路小屋が整備されている。しかしほとんどはトイレがない。数は少ないが個人や企業が休憩所としてベンチやトイレを用意してくれていることもある。トイレは利用できそうなところで早めに済ませることが肝要だ。

道中でお茶や水をふるまわれたり、3月だとポンカン、八朔、みかんなどをお接待として頂くことが度々あった。わざわざ車を停めてお接待をしてくれる方もいたり、「ちょっと待っとき」と言われて足を止めていると10個ほどの八朔を渡されたりする。重たいのになぁと思ってもお接待は断れないので・・・。あるときは車からオバちゃんが降りてきてバナナ4本のお接待。荷物にならないよう歩きながらお腹に入れ終わった頃、追いかけてきてバナナの皮を回収してくれ、次はポンカンと八朔各2個に加えてゴミ入れにするようにとビニール袋を、そしてミカンの皮むき器までくださった。そのあとまた追いかけてきてさっきのポンカンで手が汚れただろうとティッシュをいただいた。親切に感謝しながら大分歩いた頃遙か先からUターンしてきて目の前に止まり最終札所の近くにある遍路センターで完歩証明をしてくれるとアドバイス。これはオセッタイよりオセッカイに限りなく近いと思っていたら、ご自分でもお節介を自覚されていたようだった。ちなみにこのお接待と次の植物園は菅笠を被るようになってからだ。

高知市内の山にある竹林寺への遍路道は牧野植物園の裏から登り園内を巡って南門から出るようになっている。日本の植物分類学の父牧野富太郎博士が「植物園を造るならここがええ」と生前おっしゃっていたので、業績を顕彰するため、没後この地を選び造られた県立植物園は充実している。遍路道を歩いてくると入場料720円が無料で堪能できるのもお接待といえよう。

札所の1番は徳島県から始まり高知県、愛媛県、香川県と巡るのが順序となっている。しかしどこから始めてどこで区切っても構わないし、逆に廻るのは御利益が3倍あるともいわれている。しかし逆順は目印がないので間違いやすいだろう。

予定の3週間を高知県四万十町で迎えたヘンコは37番岩本寺で区切り神戸に帰ってきた。距離にして全体の三分の一ほどの400kmを歩いたことになる。そして暑さに弱い女房も4月になると辛くなるので一緒に戻ってきた。ということは秋か来年の3月涼しいうちに続きをやるつもりのようだ。御利益は分からないが目に見える効果として体重は3kg減の65kg、体脂肪率は5ポイント減の16.5%になった。女房については体脂肪がぐんと減った。頑丈そうなトレッキングシューズのかかともすり減った。底の貼り替えは買うほどかかるので財布の中身もついでに減った。

わずか三分の一を歩いただけでこんな駄文を書けるほどの思いがけない体験をさせてくれた女房に感謝している。

追記:さらに歩けばもっといろいろ体験させてもらえそうですが、続編を書く機会が訪れなければいいのにと今は密かに願っていますので、四国一周を終えていないこの段階で寄稿いたしました。