32期卒後50周年同窓会
32期卒後50周年同窓会

卒後50周年の32期同窓会を10月12日(日)に三宮センタープラザ6階の「スペースアルファ三宮」にて行いました。
82名+Zoomでの参加者5名、恩師の先生3名(平井先生、稲垣先生90歳、岩井先生)、古泉前校長、訓育生28期豊田さん、岩崎さん(Zoomでの参加)で、現地参加者は87名でした。
13時開始で、・物故者9名への黙祷 ・恩師のご挨拶 ・古泉前校長のご挨拶 ・岩崎さんのZoomでのご挨拶・豊田さんの乾杯のご発声 ・第1回目の集合写真の撮影と進みその後、豪華お弁当での会食・歓談が開始されました。
・稲垣先生のご挨拶:六甲でのカルチャーショックは1時間目の最初の瞑目と2時間目に教科書を忘れた濱名君の正座でした。私も今は足腰が弱りましたが、他は元気です。最初に教えた思い出深い32期の同窓会なので出席しました。皆さんの顔と名前は一致しませんが、これからもお付き合いをよろしくお願いします。
・岩井先生のご挨拶:稲垣先生と同じ年に六甲に赴任し、同じ年に去りました。32期に六甲のしきたりを全部教えてもらった。今でも32期から同窓会に呼んでいただいて有難うございます。これからも長いおつきあいをお願いします。
・岩崎さんのご挨拶:50周年ご卒業おめでとうございます。最初に皆さんとお会いしたのは1969年、私が高2で皆さんは中1D組を担当しました。私が入学した1965年は武宮先生からシュワイツエル先生に校長が替わりました。そのころ社会的にも改革が盛んで、六甲でも風呂敷からカバンになるなど変革の時代でした。その中で皆さんが早く六甲になじむように訓育制度が始まったと思います。本日はおめでとうございます。
・古泉前校長より乾杯のご発声:30期の佐久間です。校長時代に話が短いので有名でした。ということで乾杯の挨拶をすることになったと思います。皆さん古稀が迫っていますが、本当にお若い。長丁場ですが、お医者さんもたくさんおられるので何かあればすぐに対応してもらえますね。では皆さんのご健康と六甲の100周年に向けて乾杯しましょう。「乾杯!」
宣伝ですが、武宮先生の本を出しました。初期の六甲学院が分かる本です。ぜひ読んでください。
・豊田さんのご挨拶:28期の豊田です。中1Cを担当しました。A組は瀬本、B組は加地、D組が先ほどの岩崎でした。六甲に入学された中1時代の皆さんは子供でしたね。六甲時代は身体も精神も成長する時でしたね。子供から大人になる大事な時期に一貫して学ぶ六甲は素晴らしい学校と思います。皆さんとは水泳のキャンプや廊下の掃除の監督、文化祭や体育祭での面倒を見たなどありましたが、六甲精神を学んだ6年間は人生の中でも大きな意味を持っていると思います。私は退職していますが、まだまだ人生は長く、これからも今までのことを活かして豊かな人生をみなさんも送ってください。
・平井先生のご挨拶:遅れてすみませんでした。皆さんの顔と名前が一致するように、卒業アルバムを出して調べてみましたが、38期のアルバムでした。皆さんを担任してもう50年以上になるのですが、昨日のことは忘れても50年前は覚えていて懐かしく思います。今日はよろしくお願いします。
一息ついたところで、鍵山君(六甲の元教師)による六甲学院の現状報告があり、その後、今回のメインである「各クラブの思い出話し」が始まりました。
・クラブ紹介:同窓会までに各クラブから、思い出話しの原稿を提出してもらい、卒業アルバムのクラブ写真と提出された原稿をスライドにして、ステージ上でクラブ毎に全員に出ていただいて、スピーチをしていただきました。以下のような、学生時代にお互いに知らなかった話も沢山あって多いに盛り上がりました。クラブ毎の話の途中で、2回目の集合写真の撮影を行い、続いて32期の代表として伯友会の副会長までしてくれた、近藤健君により学生時代から伯友会活動にかけての思い出話しもありました。我々の時代は大阪万博(千里)、ミュンヘンオリンピック、浅間山荘事件、アイドルは南沙織、天地真理、小柳ルミ子の時代で、その時代が思い出される楽しい会でした。
事前には、13時から17時の予定で長すぎるのではないかとの意見も出て、時間が持つのかどうか心配して
いたのですが、各クラブの話が沢山あって、最後は17:30に強制的に終了にしたぐらいで、多いに盛り上がりました。また、安田君が会を通してカメラマンとして皆を撮影して下さり、集合写真もプロ並の仕上がりに
してくれました。感謝、感謝です。
その後は、生田警察西隣の「フラットファイブ」へ場所を移して、51名の参加者で2次会を行いました。
定年退職の年齢を過ぎて、皆さん落ち着いて来たようで、昔を懐かしく語り合うことができました。
「各クラブの思い出話し」(抜粋)
バスケット部:*中3の夏の合宿。蒸し風呂状態の体育館で練習終わりに、目の前が真っ暗になり気が付いたら奇麗な花が咲き誇ったお花畑の中で寝ていて、すごく気持ちが良かった。皆が上から覗き込み「大丈夫か」と大声で叫んでいて、そこで意識が戻った話。*中学の時、カナディアンアカデミーに練習試合に行って、今で言う「チアガール」の応援を初めて見て驚いた話。*クラブの練習以外はサッカーばかりしていたら、佃先生に呼び出されて体育教官室で「サッカー部で俺が鍛えてやろうか?もっと一途にバスケやらんかい!」と1時間半、説教された話。
化学部:会計特権で化学マジックの薬品を購入し、化学マジックを文化祭で披露。1時間毎に実施、毎回階段教室は大入り満員(ポンネ先生、大はしゃぎ)。
剣道部:32期は部員が多く途中退部者も含めると20人以上で、後にも先にも剣道部の部員数では最多の学年でした。森田健作主演のテレビ番組「俺は男だ」の影響だった。公式戦では兵庫県私学大会で団体3位となり創部初めての賞状。崎本範士八段(剣道で最高位)は凄かった。
硬式テニス部:中学3年の時、近畿大会団体で準優勝。*松崎君は30期の西尾さんを見習って甲南転校希望するものの、お父さんに”テニスで飯は食えん”と即却下された。
野球部:野球部には最初30名近く入部しましたが、最後は12名でした。*冬の走り込みが辛くてよく部活をさぼり、当舎さんに怒られたこと。
バレー部:高1の時、ミュンヘンオリンピックで男子バレーが金メダルを獲得し、モチベーションが爆上がりしたこと。高1から岩井先生が顧問になり、実践的な指導が受けられるようになったこと。
音楽部:演奏旅行前に講堂で練習をしていて、本田さんがいきなり指揮棒を真っ二つに折り、自分の前の木製の譜面台もなぎ倒して講堂から出て行ってしまった事件。本田先生の「音楽はその文字の示す通り、だれでも楽しめるものであり、決して音学ではない」という単純で揺るぎのない信念。
山岳部:槍ヶ岳(標高3180m、日本で5番目に高い山)の頂上直下3070m辺りにある、猫の額ぐらいしかない非常に狭いキャンプ地で一晩を過ごした話。(顧問の坂上先生は「ワシは小屋に泊まるは」と言ってすぐ近くの槍ヶ岳山荘に宿泊。)
生物部:日常的活動はショウジョウバエを用いた遺伝の研究、品川先生の研究テーマのマイマイ(カタツムリ)の歯舌の研究。顧問はアルシナ先生。
弓道部:加地さんには、優しく懇切に指導頂いた。内職的な的貼りの仕事も、ピンと張った新しい的ができると、それなりに楽しかった。 扇、金的、射割りといった余興的イベントは楽しかった。
物理部:吉川先生が授業で行っていたドップラー効果を、目で見えるような装置を作ろうとしたが理解できるような装置ができなかった。
軟式テニス部:軟庭は高校卒業から今日まで50年間、毎年集まっている。秋山君が店の予約から皆(前後の期へも)への連絡まで全部やってくれていて、続けられたのは彼のお陰です。在学中も卒業後も「キャプテン秋山」頼みの軟庭です。
地学部(天文気象観測部):1972年10月久美浜でジャコビニ流星群の観測を行った時、真っ暗闇の海岸を何人かで歩いていると、お巡りさんがやってきて、ここは危ないから気を付けるようにと注意を受けた。久美浜の対岸は北朝鮮であり、まだ拉致問題が公になっておらず、日本海側は極めて危険なところということを意識することもなかった。(横田めぐみさん拉致事件は、1977年)。
地歴部:国土地理院の地図の各標高線を厚いボール紙に移して切り取って、各標高のボール紙を糊で重ねて貼合わせる立体地図が記憶に残っています。
陸上部:いつも淡々と、でもちょっとユーモア感を持って、顧問の平井先生が少しだけ距離を置いて眺めてくださっていたのが、救いだった。王くんが、何故かいつも筋トレをしていたような覚えがあります。
出版部:夏は出版部で議論する合宿があり、信州や岡山県笠岡市の離島とかへ行っていました。事務室に公立学校OBの事務職員の元教諭がおられ添削とか文の書き方とか教わったのはありがたかったです。
演技部:ステージクラフトとも言って、文化祭に講堂で劇をしていました。女性役を小林聖心に頼んで来てもらっていました。
体操部:顧問は栗田先生、スミス先生、岩井先生と変わりました。部員の少ない弱小チームでキャプテンの大下を除いては、まともな演技が出来ないのに試合には出ないといけない、というのがかなりのプレッシャーでした。
サッカー部:高校1年の時に近畿大会優勝。31期との混合チームで、先輩に引っ張ってもらってあれよあれよという間に優勝した話。 放課後の職員室で佃先生のきついご指導を受けた話。
(文責:32期 山田 博)
