事務局のお休みについて
伯友会事務局は
8月9日(土)~8月24日(日)
夏季休暇となります。
よろしくお願い致します。
六甲伯友会のオフィシャルサイトです。
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(2011年伯友会懇親会にて。本田先生(左から二人目)と50期生メンバー。筆者は左端)
1 はじめに
作曲家 本田周司先生(以下「本田先生」という。)の作品を蒐集・整理し、後世に向けて保存する「作曲家 本田周司プロジェクト(仮)」の立ち上げをお知らせします。
本田先生は、1955年(昭和30年)から1989年(平成元年)までの間、六甲学院中学・高等学校において音楽教諭として教鞭をとられました。この30数年間、六甲学院において唯一の音楽教諭であり、全学年の音楽の授業を担当されました[1]。
本田先生は音楽教諭であったのと同時に、作曲家でもありました。その作品は、生徒向けの唱歌、管弦楽、吹奏楽、ピアノ曲、合唱曲など多岐にわたっています。我々伯友会会員になじみが深いのは、《六甲学院讃歌》でしょう。現在においても在校生に歌い継がれています。
この《六甲学院讃歌》をはじめとして、『六甲歌集』に収録された歌の数々を作曲されたり[2]、音楽部のために吹奏楽作品を書かれたりするなど、自ら「教材」を提供されたほか、楽壇最高の登竜門として知られている「日本音楽コンクール」の作曲部門においても複数回受賞されています[3]。また、《交響曲「三つの像」》は、総理府(現在の内閣府)主催の「21世紀の日本」において管弦楽部門総理府長官賞を受賞し、この曲は六甲学院創立30周年の記念演奏会において京都市交響楽団によって披露されました[4]。
また、本田先生は京都府福知山市の福知山成美高校(私立)の校歌の作曲者でもあり、同校が甲子園に出場し校歌が斉唱された際、作曲者として本田周司の名が映し出され、伯友会会員の間で話題になったことがありました。この校歌は六甲学院に勤務するよりも前に作曲されたということです[5]。
これらの作品の中で圧巻とされるのは、日本二十六聖人殉教をモチーフにした《長崎への道》シリーズでしょう。中でも《交響的序曲 長崎への道》は第一番から第三番を擁し、それぞれ演奏時間が30~45分にわたる大曲になります。同第一番及び第二番はそれぞれ1983年(昭和58年)と1984年(昭和59年)の夏に当時の音楽部によって初演されました。特に同第二番は本田先生ご自身が「私の作品中白眉とも言うべき力作であり、後世に残る傑作であるという自信があった」と述懐されており[6]、初演の年の12月に当時の六甲学院講堂において再演されました。また、後述の通り1987年(昭和62年)の夏にも音楽部によって演奏されました。
同第三番は1987年(昭和62年)11月14日に六甲学院創立50周年記念式典において京都市交響楽団により初演演奏されました[7]。現在の講堂の杮落としとなったものです。
また、本田先生ご退職後の1997年(平成9年)3月19日には京都コンサートホールにおいて日本二十六聖人殉教四百年記念演奏会[8]が開催され、《交響的序曲 長崎への道 第三番》が再演されました。
しかし、筆者が調査した限り、この演奏会を最後に本田作品が公の場で演奏された記録がありません。
後述するように、本田作品は楽曲としての壮大さ、美しさもさることながら、日本人がキリスト教的な主題を楽曲において表現することを試みた作品群という、現代音楽史上の意義を見出すことができます。同時に、本田作品は中高生にも親しめる間口の広さも兼ね備えています。すなわち、芸術としての価値が余すところなく詰め込まれているわけです。
とはいえ、造形芸術と異なり、音楽は演奏されてこそその魅力に触れることができ、また後世に伝えられるという宿命を帯びています。最後の演奏から30年近くがたつ今、このままでは素晴らしい作品群が埋もれてしまうという危機感を抱かざるを得ません。
そこで、本田作品の収集・整理し、後世に記録として伝えるべくプロジェクトを立ち上げようという思いに至ったものです。
2 本田周司先生ご経歴
(1)本田周司先生は1927年(昭和3年)2月[9]、三重県天白村(現在の松阪市)において代々神主であった家の三男として生まれました。長兄がヴァイオリンを弾くなど、家庭内に音楽環境はあり、幼少期より音感のよさを家族から見出されていたものの、習いごとなどを含め特段の音楽教育を受けることはなく、子ども時代を過ごしました。楽譜も読めなかったということです[10]。
その後、海軍に入隊するものの、18歳のときに終戦により復員しました。出撃しようにももはや日本軍には乗る船が無かったということです。戦中までは国家により目標がはっきりと定められていたものの、これが無くなり空虚な日々を送っていたところ、芸術ならば裏切られることがないと考えたのが音楽の道に進もうと思ったきっかけになったというのが本田先生の言です[11]。
とはいえ、楽譜すら読めなかった青年が作曲の道を志すというのは、いくら戦後の混乱期であったとはいえ飛躍を感じるというのが率直なところです。いかにして自己の才能に気付き、勉強を開始し、これを職業にしようと思うに至ったのかは杳として知れません。1991年(平成3年)に当時の在校生によって実施されたインタビュー[12]でもこの点は曖昧なままです。なお、本田先生自身は自己の学歴を「独学」とされ[13]、経歴等において師事者として野口源次郎や外山道子[14]といった大阪音楽大学で教鞭をとった作曲家の名が挙げられています。
(2)本田先生が、音楽の勉強を続ける中で出会ったのが、フランスの作曲家アルチュール・オネゲルであり、オネゲルとの出会いが六甲学院につながります。
オネゲルの作品、中でも《交響曲第3番「典礼風」》に大きく感銘を受け、オネゲルの精神性を理解するためにカトリックの世界に関心を持つようになりました。本田先生ご自身は、動機としては不純と述べています[15]。
当時の本田先生は宝塚歌劇団で音楽の仕事を得ていたところ、ある休日に六甲山にハイキングに行った際、帰りのバスの車窓からたまたま六甲教会を見つけました。こんなところに教会があると思い後日改めて六甲教会を訪ね、当時在籍していたブラウン神父に出会いました。最初はスコアに記されたラテン語の言葉の意味を尋ねること程度の関心しかありませんでしたが、同神父にさらに勉強することを勧められ、教会に通うようになりました。進駐軍が六甲教会に来ていた時期ということなので、1952年(昭和27年)以前のことになります(同年にサンフランシスコ平和条約が発効した)。そうするうち、六甲教会で六甲学院の武宮隼人初代校長に出会い、音楽教諭としての就職の話が持ちかけられたものです[16]。
(3)ここから30数年にわたる六甲での教員生活が始まります。
その間、上記の通り多数の作品を生み出されました。大きなモチーフになったのは、日本二十六聖人です。豊臣秀吉の治世であった1597年(慶長2年)に起こった、日本で最初のキリスト教弾圧の殉教者で、京都で捕らえられたキリシタン24名と途中で加わった2名が山陽道を長崎まで連行され、長崎の西坂の丘にて磔刑に処せられ殉教した事件として広く知られています[17]。
新聞の連載小説がきっかけで二十六聖人に関心を持った本田先生は[18]、同じ道を歩いてみようと思い立ち巡礼を始めました。まずは巡礼というものを知るために「四国八十八箇所巡り」を体験し、この結果を踏まえて1977年(昭和52年)に自ら京都から長崎まで踏破されました[19]。
この巡礼の旅が創作活動の原点になり、上記の《交響的序曲 長崎への道》シリーズ、これに先立つ《パッサカリア》《巡礼の為の狂詩曲》など、多数の作品が生み出されました。ピアノ曲も存在します。
六甲学院をご退職後は「長崎への道事務局」を主催し、巡礼者の世話をされていました。上記の通り1997年(平成9年)3月19日に日本二十六聖人殉教四百年記念演奏会が開催されました。
現在、御年98歳、ご存命ということです。
3 作品の魅力
(1)私事で恐縮であるが、筆者は1987年(昭和62年)つまり六甲学院50周年の年に中学1年生として入学しました。音楽教諭は本田先生でありその独得の授業を楽しんだ世代です。のみならず同年夏に行われた音楽部のサマーコンサートにおいて演奏された《交響的序曲 長崎への道 第二番》に深く感動し、本田先生の音楽世界に惹きこまれました。
同年11月の五十周年記念式典において、京都市交響楽団によって《同 第三番》が初演され、好評を博しました。続いて、生徒向けに翌1988年(昭和63年)4月にやはり京都市交響楽団による演奏会が開かれました。上記の通り筆者は《第二番》にうちのめされ、さらにこの《第三番》でも大きく心を揺さぶられました。筆者の人生において「この人は天才だ」と思った最初の人物であったことに間違いありません。筆者は小学生のころからピアノを習い、実は50歳になった今でもピアノ演奏者として音楽活動を続けています。中学生男子というとそれまでの習い事としての音楽を止めがちなタイミングですが、本田作品との出会いがあったことで、ピアノを継続することになりました。本田作品が、今に至る音楽活動の「延命」に寄与したことは疑いがありません。
50周年当時の校誌をみるに、46期の鎌谷朝之氏が解説文を記しているように[20]、この楽曲に感銘を受けた在校生は多数いたものと思われます。
(2)では、本田作品の魅力は何なのでしょう。その魅力の考察の仕方は多岐にわたりますが、なぜ中高生にも感銘を与えることができたのかという視点から、《交響的序曲 長崎への道》シリーズを題材に検討したいと考えます。
まずもって作品そのものの、いい意味での「わかりやすさ」が挙げられます。
モチーフが日本二十六聖人殉教という、教科書にも写真付きで出てくる日本史上の事件になります。誰もが知る事件をモチーフにすることで、必ずしも音楽的素養がない人や宗教的な関心のない人であっても、間口のハードルを下げることができます。
この間口をくぐれば、楽曲におけるわかりやすさがあります。《交響的序曲 長崎への道》シリーズは、いずれも主題のメロディラインがはっきりしているのが特徴です。容易に口ずさむことができるし、歌詞をつければ歌にもなるでしょう。また、そのメロディラインがきわめて日本的な短調のメロディであり、より親しみやすくなっています。誤解を恐れずいえば、時代劇主題歌や演歌のようなノスタルジックな入ってきやすさがあります。
そしてこの主題が繰り返される(それゆえ演奏時間が長くなる)という点が最大の特徴です。よって、嫌が応でも主題が耳に残ります。この主題の形式も、基本的な型(A)、その発展型(A’)、展開型(B サビと呼んでもよかろう)の3種類の任意の組み合わせになっている点でも共通しています。よって、聴いていて次の展開が読みやすく、意表を突かれることなく音楽にひたれることができます。
以下、<譜例1>及び<譜例2>は、《第二番》及び《第三番》の主題部分になります。
<譜例1>
《交響的序曲 長崎への道 第二番》の主題 基本的な型(A)
<譜例2>
《交響的序曲 長崎への道 第三番》の主題 基本的な型(A)
併せて、特異な和音を使わず、基本に忠実な和音進行を用いていることからも、とっつきやすさがもたらされています。さらに変拍子も使われていません。長い楽曲であるが、ずっと4分の4拍子が継続しています[21]。これは徒歩による旅の単調さを表現するものとも思われますが、聴く側に安心感をもたらすことになります。現代音楽においては、不協和音や変拍子で奇をてらうことが一種の現代性とされる場合もありますが、それとは一線を画する態度がみえます。
(3)次に表現が非常に写実的であるという点も挙げられるでしょう。この点も「わかりやすさ」に寄与していると言えます。
《交響的序曲 長崎への道》は、二十六聖人が長崎に連行された道を徒歩で歩く巡礼行為がテーマになった楽曲です。
歩くという行為自体は実に単調です。ただ、単調な歩みであっても、目的地を目指す歩みというのは、疲れはもたらすものの、決して退屈をもたらしません(どこか目的に向かって歩いているときに退屈という感情はあまり浮かばないだろう)。むしろ単調であればこそ、街道の様子、空や木々が示す季節感のほか、道端でふと目にとめた何気ない地元の人たちの生活のひとこまが、却ってインパクトをもたらしてくれます。観光名所などを訪れる旅にはアクセントがありますが、アクセントがない旅は、ない故のディテールへの気づきが期待できます。
また、単調な行為のなかで、様々な思いが去来するでしょう。それは400年前に同じ道を歩いた二十六聖人の姿や、その心持ちへの想像かもしれないし、同時に今自分が歩いている行為そのものが果たして意義あるものなのかという疑問かもしれません。
こうした、旅の情景や去来する思いが、「わかりやすく」楽曲として表現されているのが《交響的序曲 長崎への道》シリーズです。
上記の通り主題は3通り(A、A’、B)を組み合わせて繰り返し、徒歩による旅の単調さを表現します。しかし、同じ主題の繰り返しであるからといって、退屈させません。たとえば、バッキングを多彩に変えたり、リードをとる楽器を変えて新たな表情を出したりと、巧みなアレンジにより、同じ主題の繰り返しであっても決して飽きさせない工夫がみられます。また、上記3通りの主題と主題の間に別の旋律をはさむことで、徒歩による旅の表現に対して、足をとめて見上げた空やそのときに去来した思いなどを表現し、巧みに場面転換を図っています。そのため、繰り返される主題を聴きつつも、その先に明確な目的地があり、音楽をもってそこに誘導されているという気分になってきます。単調であっても退屈するわけではない、徒歩による旅が巧みに表現されているわけです。
また、こうした主題とあわせて、街道の様子が写実的に描かれます。たとえば、空の様子であり、祭りの様子であり、夜明けから太陽が昇る様子などです。
一例として<譜例3>として、主題と主題にはさまれる旋律を挙げます。主題=歩みからふと足を止め、見上げた空の様子やその際に揺れ動く心情を表現しているのでしょうか。後述するように本田作品は三連符の用い方が巧みですが、ここでは三連符が場面転換の効果を発揮しています。
<譜例3>《交響的序曲 長崎への道 第三番》主題と主題にはさまれる旋律
他方で、殉教者のモチーフが楽曲の冒頭と末尾に描かれます。殉教者らは耳を削がれ裸足のまま京都から長崎まで連行されたわけですから、筆者のような信仰がない者の視点としては、単に痛くて辛くて嫌だという感想しか出てきません。その一方、なぜ殉教者が苛烈な責め苦に耐えられたかというと、これに耐えることにより「永遠の生命」が与えられるという確信があったためとされています[22]。
もっとも人間であるがゆえにそこに迷いがあったかもしれないし、後世に伝えられるような立派な話ばかりではなかったかもしれません。たとえば、殉教者はキリストと同じようになることであり、殉教とは喜びに溢れる行為とされ、迫害者はむしろ「神に奉仕している」と捉え、殉教者は迫害者に「感謝し心から許しを与える」とされています[23]。私のような信仰がない者としては、理屈としての納得のしかたはその通りであろうが、人間の感情としてそこまで割り切れたものだったろうかと疑問を抱きます(信仰という内心の問題について、感情より理屈の方が親和性を持つという一見不思議な現象です)。
こうした苛烈な弾圧の実態、それに対する殉教者の心象風景が、実に写実的に楽曲として描かれています。ひとつ三連符の効果を指摘できるでしょう。本田作品の特徴として三連符の使用が巧みであるということが挙げられますが[24]、三連符による表現は前後のフレーズとの相対的な位置関係によって、あるところでは脅え、あるところでは迷い、他方で、あるところでは強調、あるところでは前進など、ややもすれば相反するかのような多様な概念が表現されています。
<譜例4>は、《交響的序曲 長崎への道 第三番》 冒頭において、「殉教者への挽歌」が歌い上げられるところ、そのバックで奏でられる旋律群である。「殉教者への挽歌」は、殉教の苛烈さを示しているところ、その恐怖、不安を間断ない三連符の連続で表現している。
<譜例4> 《交響的序曲 長崎への道 第三番》冒頭の「殉教者への挽歌」のバックで奏でられる旋律群の一例
次に、<譜例5>はクライマックス=殉教の地に向かう緊張感の高まりが表現されています。この旋律は、この部分に先立ち演奏されている「勝利のラッパ」の旋律の変奏になっています。すなわち、「勝利のラッパ」=「永遠の生命」を示す旋律の変奏によって、そこに至るまでの不安、緊張、恐怖などが表現されていると解釈することができるでしょう。
<譜例5> 同 終盤で奏でられる旋律
弾圧そのものは恐怖そのものであり、そこに一人一人の殉教者に迷いも生じたものと推測します、しかし迫害を受けたとしても結果的には「永遠の生命」につながると信じることこそが信仰でしょう。楽曲の末尾には上記例のような苛烈な表現が通り過ぎたあと、まさに天に昇らんとするような神々しい旋律、殉教碑讃歌が出現します。最終的に至ることができた「永遠の生命」の本田先生流の表現であったと考えます。
なお、楽曲の最終盤において、《交響的序曲 長崎への道 第三番》では、いわゆるアーメン終止、Ⅳの和音からⅠの和音への進行が存します。つまり楽曲という形での壮大な祈りの終わりが表現されています。他方で《交響的序曲 長崎への道 第二番》の締めくくりは、Ⅳの和音が聞こえることによりⅠの和音に移行してアーメン終止になるかと思いきや、別の和音に移って楽曲が終わります。まだ壮大な祈りは終わらない、次回に続くという暗示であり、本田先生の遊び心とも捉えることができそうです。
(4)もっとも、本田作品の全てが「わかりやすい」というわけではありません。
《交響的序曲 長崎への道 第三番》はあくまで「わかりやすく」することを意識して創作されたものと思われます。その曲目解説において、本田先生ご自身が「作曲家としてその芸術的表現・・・よりも、愛する六甲学院の生徒諸君、それも特に中学生諸君が、この曲をどう感じてくれるか?、それが最大の関心事」と書かれていたように[25]、意識して「わかりやすく」創作されたものであることは間違いありません。
しかし、あらゆる専門分野に通底することですが、高度な思想性を「わかりやすく」表現することほど難しいことはないことは、伯友会会員諸兄なら理解いただけるでしょう。
他方で、たとえば本田作品のピアノ曲である《カプリスNo.8》[26]は、言わば現代曲らしい現代曲となっています。明確なメロディは少なく、変拍子が使われていたり、不協和音によって理論通りではない和音進行が用いられたりしています。《交響的序曲 長崎への道 第三番》において「現代音楽の持つ高踏的芸術的難解さを意識的に避け」たと記されているところ[27]、裏を返せば「現代音楽の持つ高踏的芸術的難解さ」を持つ一例となるでしょう。
ただ、この《カプリスNo.8》は写実性という点はむしろ明確に打ち出されています。巡礼路の一部、備中国分寺(岡山県総社市)近辺の風景をモチーフにしていますが、同寺の五重塔を表現する旋律、塔を見上げた際はオクターブを上げて表現するなど、写実性が示されている。そのほか、川がよどみながら流れる様子、路地裏で遊ぶ子供たちから新幹線が走るさままで表現されています。もっとも、筆者において一般化できるほど、多数の楽曲を分析できているわけではありません。
4 本田周司プロジェクトの活動について
以上述べてきましたが、プロジェクトとしては満足な活動は行えていないのが率直なところです。数名のOBにお声かけし、方向性についてご快諾をいただいたものの、何か成果を出したかというと何もなせていません。最大の理由は日々の忙しさにかまけているせいですが、忙しさを理由にしていては何もできません。
25期久保憲一氏及び中谷仁美氏が、六甲歌集に載せられた曲を中心に、ボーカロイドに歌わせ、動画データとしてYouTubeにおいて公開されています[28]。当時音楽部が体育祭で演奏するために、本田先生が提供された《オッコロマーチ》(ROKKOを反対から読んだもの)を楽譜演奏ソフトによって演奏した動画も同様に公開されています。
また、本稿でもご指摘した先輩方から情報提供をいただきましたが、数多の作品群のほんの一部にしかアプローチできていません。
今後なにより、楽譜そのものの蒐集、さらに望むらくは演奏例の蒐集が必要です。本田先生ご家族のご協力も必須でしょう。
楽曲の蒐集のうえでの整理・編集もさることながら、楽曲のさらなる分析のほか、巡礼という行為をいかに楽曲上に表現したかの考察、カトリック作曲家としての表現と日本的表現との融合など、研究テーマはいろいろと考えられます。
もし伯友会会員諸兄のなかに、何か本田先生及び本田作品に関する情報をお持ちであれば、どんな小さなことでも結構なので情報提供いただけると幸いに存じます。Wikipediaも開設しました[29]。六甲が生んだ天才作曲家の偉業を後世に伝えるため、ご協力をお願いします。
50期 藤原唯人 連絡先 E-mail:tadato00@gmail.com
[1] 本田周司(2012年)「『六甲歌集』誕生秘話」 『伯友』61号16ページ
なお、『伯友』57号(2010年)44ページにおいて、本田先生の経歴紹介として「音楽担当教諭として六甲学院に1957年~1990年奉職」という記載があるが、こちらは誤りと思われる。
[2] 六甲歌集は、六甲学院創立20周年記念(1957年時)に初版が発行。平成25年10月10日に復刻版が発行された。
[3] 具体的には、いずれも作曲部門で、第23回(1954年)室内楽曲 入選、第25回(1956年)管弦楽 2位、室内楽曲 入選、第26回(1957年)室内楽曲 2位、第27回(1958年)室内楽曲 入選 作曲部門
日新聞社「日本音楽コンクール 入賞者一覧」 https://oncon.mainichi-classic.net/winners/ (令和7年5月4日閲覧)
[4] 「三十周年記念式典」『六甲学院新聞』昭和43年4月28日号
[5] 本田周司(2010年)「老いの繰り言 わが心の師・故武宮校長先生を偲んで」 『伯友』57号42ページ
[6] 本田周司(1987)「二十六聖人記念碑の建立」『六甲』第37号 57ページ
[7] 『六甲学院創立50周年記念 京都市交響楽団演奏会』パンフレット(1987年11月14日)
[8] 1997年3月19日に、京都市コンサートホールにて、京都市交響楽団 黒岩英臣指揮により、《交響的序曲 長崎への道 第三番》のほか、その前年に作曲された《コンポジション第2番 Martyres, Ora pro nobis》が演奏された。この際の《第三番》は初演時より短縮されたバージョンであった。
[9] もっとも、目黒三策(1970)『音楽年鑑(昭和45年度)』株式会社音楽之友社 229ページには、昭和4年生まれと記載されているが、誤記であろう。
[10] インタビュー記事(1992)「神様にお任せ、くよくよするな 『長崎への道』を歩む本田周司先生に聞く」『六甲』第42号 27-28ページ
[11] 前掲『六甲』第42号 29ページ
[12] 前掲『六甲』第42号 16ページ以下
[13] 六甲学院五十年記念誌編集委員会(1987)『六甲学院 五十年のあゆみ』学校法人六甲学院 149ページ
[14] 本田周司(1987)《交響的序曲 長崎への道 第三番》長崎への道事務局157ページ
[15] 前掲『六甲』第42号 31ページ
[16] 前掲『六甲』第42号 32-33ページ
[17] 文献は多数存する。たとえば、ルイス・フロイス著 結城了悟訳(1997)『日本二十六聖人殉教記』聖母文庫
[18] 前掲『六甲』第42号 33ページ
[19] 長野宏樹(2022)「日本二十六聖人『長崎への道』巡礼友の会」 『家庭の友』2022年6月号 サンパウロ 4-5ページ
もっとも最初に歩いたのは1975年(昭和50年)という記述もある。本田周司(1987)『交響的序曲 長崎への道 第三番』スコア 長崎への道事務局 5ページ
[20] 鎌谷朝之(46期)(1988)『交響的序曲 長崎への道 第三番』『六甲』第38号 133ページ
[21] 《交響的序曲 長崎への道 第二番》は、一部4分の5拍子による旋律展開がある。
[22] ルイス・フロイス著 結城了悟訳(1997)『日本二十六聖人殉教記』聖母文庫 181ページ 二十六聖人のうちの一人ルドビコ茨木が棄教と引き換えに助命を促された際、「つかのまの生命と永遠の生命を交換するのは意味のないことです」と答えたとされる。
[23] 結城了悟著(2002)『二十六聖人と長崎物語』聖母文庫 10ページ
[24] 前掲『六甲』第38号 133ページ 三連符の重要性が指摘されている。
[25] 『六甲学院創立50周年記念 京都市交響楽団演奏会』パンフレット(1987年11月14日)
[26] 1975年3月15日の日付が入っている。38期牛瀧文宏氏より譜面をご提供いただいた。やはり二十六聖人殉教をモチーフにした楽曲であり、岡山県総社市辺りから広島県福山市辺りまでの旅程が描かれている。
[27] 本田周司(1987)『交響的序曲 長崎への道 第三番』スコア 長崎への道事務局 5ページ
[28] https://www.youtube.com/@rok2557
[29] https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E7%94%B0%E5%91%A8%E5%8F%B8
(文責:50期 藤原唯人)
日時: 2024年10月12日(土)17:30~19:30
場所: 香港海鮮料理 椰林(ヤーリン)
参加者:野見山元伸(11)、角田嘉宏(13)、滿野(村上)光(14)、高橋庸一郎(18)夫妻、慶野雅彦(19)、角田正治(21)、木村勝彦(23)、小野誠(25)、中村奉修(26)、山下(小林)泰三(26)、濱田謙三郎(26)、濱田誠剛(27)、姫野靖彦(28)、山本芳邦(28)、浅香晃一(29)、築森元(32)、値賀成昭(33) (敬称略)
新型コロナが5類に移行し集会の自粛も無くなり、ようやく第8回体操部OB会を開くことができました。今回の会場は阪急御影駅北東の御影ガーデンシティ2階にある香港海鮮料理の「椰林(ヤーリン)」で、18名が集い大いに盛り上がりました。なお、この素晴らしい会場はいつもグルメ指南をして頂く13期角田嘉宏氏から教えて頂きました。ありがとうございました。
今回は、11期から33期まで幅広い年代の方々が集い、六甲生時代の体操部の思い出話から現在のご活躍まで盛り沢山の様々な話題で、楽しい時間を過ごしました。
初参加で大先輩11期の野見山氏からは「脳内革命」のお話がありましたが、いつまでも学び続ける姿に感じ入りました。14期滿野(村上)氏は86歳の現在も一級建築士として現役でご活躍とのこと、氏のバイタリティーに一同驚かされました。
25期小野氏から六甲体操部の歌をご案内頂きましたので、食事の合間に皆で視聴しました。懐かしい写真付きの動画です。https://youtu.be/q6F1jpaMCrw
また、今回は32期築森氏・33期値賀氏の若手2名の初参加もあり、「楽しかった」との感想を聞き、幹事はホッと一息(笑)
また集う日まで、皆様、健康に留意されお元気にお過ごしください。
体操部ホームページ(https://sites.google.com/site/rokkotaisobu/home )が手違いで消失しましたこと、皆様にお伝えします。新たに再構築を目指す考えです。
なお、体操部OB会報告は初回から全て伯友会ホームページ(https://www.hakuyu.jp/)の「投稿記事」にて閲覧できます。
(文責:第8回体操部OB会幹事 29期浅香晃一、rokkotaisobu@gmail.com)
このほど、六甲学院の前校長である古泉肇さん(30期)が、初代校長の武宮隼人先生の理念と事績を中心に六甲学院誕生の物語をまとめられた「高みをめざして~六甲精神の源を探る~」という本を上梓されました。佐久間さんという名前のほうが馴染みぶかい方もおられるでしょうが、古泉さんは、1967年に30期生として入学、1977年から数学教員として母校で勤務された後、2015年に第9代校長に就任そして2021年に退職されるまで、長きにわたり六甲学院とともに歩んでこられました。
本の内容は、六甲学院の教育理念に始まり、武宮先生の名言を紹介し、六甲精神のルーツが語られるほか、学校生活や六甲学院の伝統などについてもわかりやすくまとめられています。(詳しくは目次参照)
巻頭言の中で古泉さんは「私はこの本で「原点に帰る」、すなわち「創立時の六甲に遡ること」、そして武宮隼人初代校長先生が実際に行った(目に見える)教育を通じて、目指していた(目に見えない)教育を探求することで、「六甲精神とは何か」「六甲らしさとは何か」を皆さんと共に考えていきたいと思います。」と述べられています。
六甲学院は80年以上の歴史を有し、時代の変遷や社会の変化とともに、各期の卒業生がイメージする六甲精神もそれぞれ異なったものとなっていることでしょうが、この本によって、あらためて考えなおしてみるきっかけになるのではないかと思います。
A5判 247ページ 2022年3月19日発行
編集・著者 古泉肇(こいずみはじめ)
※ご希望の方には1冊2000円(送料込み)で古泉さんより頒布されます。
伯友会では販売しておりませんのでお間違いなきようお願いします。
※下記のフォームよりお申し込みください。古泉さんより振込先案内とともに現本が送付されます。(振込手数料等はご負担ください)
※なお申し込まれた各自の情報は古泉さんにお伝えしますのでご留意ください。
六甲伯友会名誉顧問(第3代六甲学院校長)パウロ粟本昭夫神父 が7月17(木)午前4時5分に、老衰のため、東京のロヨラハウスで帰天されました。98歳でした。
通夜は、7月21日(月・祝日)午後7時30分より、葬儀ミサ・告別式は7月22日(火)午後1時30分より、いずれも東京の麹町(聖イグナチオ)教会主聖堂で執り行われます。
葬儀ミサのライブ配信用のリンク、QRコードは下記の通りです。
【略歴】
1927年2月12日 広島県安佐郡(現在の広島市安佐北区)に生まれる
1951年3月30日 イエズス会入会
1962年3月18日 司祭叙階
1964年~1982年 六甲中学校・高等学校で化学を教える
1970年~1975年 学校内の修道院院長
1975年~1982年 六甲中学校・高等学校校長
1982年~1987年 イエズス会日本管区長
1988年~1989年 浄水通教会主任司祭(福岡)
泰星中学高等学校で化学を教える
1989年~2010年 聖イグナチオ教会助任司祭
2010年~2015年 聖イグナチオ教会協力司祭
2015年~2021年 司牧活動 (SJハウス)
1983年7月~1986年3月、1989年4月~2001年3月 泰星学園理事長
1989年6月~1990年5月、1997年6月~2001年3月 六甲学院理事長
2021年1月26日 ロヨラハウス
2025年7月17日 帰天
今年も伯友会関東支部総会の実施を記念して、下記の内容にて令和塾・懇親会が実施されます。
日時・会場・内容
2025年7月19日(土)
□会場 上智大学(四ツ谷駅徒歩3分)
□令和塾 13時~14時半(受付12時半~) 12号館102号室 参加無料
□懇親会 15時~17時半(受付14時半~) 11号館ラウンジ ¥3、000(62期以下無料)
令和塾は「日本アニメの現在地と未来」と題し、アニメーションで活躍する44期塩田周三さん、
塩田さんと業界内の旧知の仲で、『君の名は。』でブレイクした新海誠監督を支え続ける川口典孝さんの
お二人をゲストに迎え、両者のファシリテーター役として57期武田義史さんを交えて
鼎談(ていだん)形式で開催いたします。
アニメーションを軸に、過去、現在、そして未来について、それぞれの視点から語り合い、
参加者の皆様にとって新たな発見や学びの場となることを目指します。
六甲OBのみなさま、初めての方も含めて下記リンクからお申し込み頂き、沢山の人数で大いに盛り上がりましょう!
https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSd5LnTOdYAUX3zN6BXRI67XyEK6XNVJq1Ji535K9j_EYviywg/viewform
(文責:50期 藤枝 誠)
六甲学院 13期 関東地区 会員各位
2025年度六甲伯友会総会・懇親会は下記日程・場所で幹事期57期により開催されました。
日時 2025年5月10日(土)
場所 ポートピアホテル
平成塾 12:30~14:30
総会 15:00~16:00
懇親会 16:30~18:30
2025年度六甲伯友会総会・懇親会・平成塾に参加されたみなさま、
ご来場ありがとうございました。
平成塾の登壇者53期荒木君による貴重なスポーツドクターのお話と、
57期谷村君のコロナ禍を通して得たさまざまな医療経験のお話を皮切りに、
1期の大先輩のインタビュー動画や新宝塚市長・森先輩のご挨拶、
読売テレビディレクター・神子さんの裏話、
終始司会を務めてくれた57期高井君と谷村君の元漫才コンビの軽快なトークなど、
すごく盛り上がりました。
すべてを統括してくれた57期幹事委員長の石原君もありがとうございました。
六甲体育祭の歴史を調べ上げてたくさんの写真を集めてくれた57期麻尾君にも感謝します。
そのほか沢山の57期のみなさん、いい会に仕上げて頂きありがとうございました。
来年度幹事期は58期により開催されます。委員長は58期清水君です。
58期石原君の活躍にも期待しております。
六甲OBのみなさま、また来年も大いに盛り上がりましょう!
(文責:50期 藤枝 誠)
北村隆志(きたむら たかし )
六甲学院卒業後、京都大学法学部から運輸省を経て海上保安庁長官に就任。
北村長官は、尖閣諸島の領海警備に意欲を示し、
領有権を主張する中国や台湾の公船、漁船が尖閣諸島に侵入する事態に際し、
船艇や航空機を全国から動員するなどの対応を取った。
2025年(令和7年)5月9日春の叙勲で瑞宝重光章を受章。
現在は、東京三軒茶屋カトリック教会の会計や海保関係財団法人の手伝いをする毎日です。
(文責:29期 藤井 則雄)
日時:2025年1月2日(火)19時~21時
場所:錦 三宮本店
参加者(14名):村上(顧問)、田嶋(15期)、武井(16期)、吉岡(16期)、山本(31期)、長野(42期)、古田(42期)、松本(42期)、深澤(50期)、白壁(63期)、向畑(65期)、小幡(75期)、尾上(77期)、北島(79期)
多忙のため執筆が遅くなってしまいましたが、陸上部OB新年会が2025年1月2日、錦
三宮本店にて開催され、15期から79期までの総勢14名が集まりました。OB会は幹事の乾杯の挨拶で始まり、その後参加者の自己紹介と近況報告が行われました。近況報告では,六甲生の活躍の場の広さが伺え,私自身も先輩方のお話を聞きながら,将来のことを考える良い機会となりました。村上先生に紙で配付していただいた記録集、陸上だよりをみて、現役の学生の活躍などを話に交えながら非常に楽しい会となりました。最後は、幹事の一本締めで終わり、またの再会を誓いつつそれぞれの帰路に着きました。次回も忘年会か新年会いずれかの形でOB会を開こうと考えております。
(文責:79期 北島 晴樹)